2018年12月22日

退却戦


ああ、時が過ぎてゆく、時代が流れてゆく。そんな無言の声に背中を押されながら、見えないレールの上をまろびころげつ小走りできた2018年。周りはどうかと見れば、盛者必衰の理をあらわすとばかり、日産のゴーンが、将棋の羽生が、この年の瀬に無惨な姿を晒している。登る頂が高いほど転げ落ちるスピードは速いという。戦は退却戦が最もむずかしいとも言われる。彼らがこれからどのように身を処するか、見ものである。とはいえ、しょせん異世界に住むエリートの話。どうなろうとこちらは知ったこっちゃない。我が身の尻を拭うのに精一杯である。

そもそも、果たしていま自分は退却戦のさなかにいるのだろうか。それとも、膠着戦の真っ只中なのか。それすら判然とせぬまま、忙しい、忙しいと言いながら流れに身を任せている。もし退却戦なら、被害は最小限にとどまっているのだろうか。少なくとも、何もかも投げ捨てて敗走するような状況ではまだない、と思う。いずれにせよ、これから我が人生をどのように収束させていくか。それが私という人間の値打ちを決めるのだと思う。

そんなことをつらつら考える年の瀬。今年も有馬記念の季節が巡ってきた。オグリの奇跡的なラストラン、トウカイテイオーの感動的な復活劇、マンハッタンカフェとアメリカンボスで大万馬券となった米国同時多発テロの年……。競馬ファンにとって、数え上げれば切りのない思い出が詰まっている名物レース。最近ではそれすらも流れ行く景色の一つに過ぎなくなってしまったのだが……。

といいつつ、なぜかこのレースだけは当てたい。それも大穴で。
◎は、マカヒキ。もう終わっているとの評がもっぱらだが、右回りこそがこの馬のホームグランド。もう一度だけ、夢を見させてほしい。もう一度だけ、自分を信じさせてほしい。
◯は、レイデオロで仕方がない。▲は、これも人気を落としているシュヴァルグラン。

思えば、◎も▲も退却戦を戦っているのではないか。勝たぬまでも、せめて見事な散りっぷりを見せてもらいたい。


posted by ギャンブラー at 18:33| Comment(0) | 競馬敗戦記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月04日

老いについて


40も半ばを過ぎたあたりからだろうか。街を歩いていて、偶然窓ガラスに映った自分の顔を見たとき、「誰だ? この老けた男は」とショックを受けることが次第に多くなった。あるいは、写真に写った自分の顔を見て、イメージしている姿よりずっと老化が進んでいる現実に愕然とすることも珍しくなくなった。

そして60をいくつか過ぎた今、姿形だけを見れば、れっきとした老齢の男である。そのせいか、30前後の若い女性と2人で飲みに行ったとき、人からどのように見られているのだろうかなどと、余計なことを気にするようになった。

こんなはずではない。仕事は今もバリバリこなしているし、能力・知力の衰えを感じたこともない。体力は多少減退したが、それでも前をチンタラ歩いている人をスイスイ抜きながら歩いている。それにもかかわらず、見た目は老人。こんな理不尽なことがあるだろうか。

「人は見た目が9割」という、容赦のない言葉がある。若い人だけでなく老人もまた、というより老人こそ、自分の見た目に「こんなはずではない」と戸惑っている人が多いはずだ。若いころ、老人というのは、身体も心も老成している人だと思っていたが、いざ自分が歳をとってみると、身体は老いても心は未だに壮年のままというのが現実であることを思い知らされている。
現役を引退した人が、サミュエル・ウルマンの「若さとは、精神のあり方で、肉体的な年齢ではない」という詩をよく引用するが、これなど、自らの肉体の老いを強く意識していることの裏返しであろう。もし将来、老化を食い止め、若返りを可能にする遺伝子治療が実現したら、真っ先に病院に駆けつけるのはこの詩の信奉者ではないかと、秘かに思っている。

歳をとれば、誰しも歯が抜け、髪が抜け、目がかすみ、皮膚には皺とシミが広がる。程度の差はあれ、これはいかんともしがたい。そのとき、自らの老いつつある身体をどのようにして受け入れるか。他人にはどうでもいいことだが、本人にとっては大問題である。超高齢化時代を迎え、何百万人もの人がそんな思いを抱えながら生きていることを考えると、長生きすることが本当に幸せなのだろうかと、考え込まざるを得ない。


posted by ギャンブラー at 23:34| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする