2019年01月05日

奇跡の書

年末年始は主に読書をして過ごした。いろいろ文句はつけるものの、私は基本的にテレビが好きなのだが、さすがに昨今の年末年始番組はマンネリの極致で、見ようという気がてんで起こらない。

人通りの絶えた街路、その一角に建つマンションの静かな部屋で、ホットカーペットに寝転びながら読んだのは、山田風太郎の『八犬傳』。これはご存知、江戸後期の戯作者・滝沢馬琴の『南総里見八犬傳』のリメイク版だが、山田風太郎だけにただのリメイクではない。全98巻、106冊という常識はずれの伝奇小説のエッセンスを新たに小説に仕立てながら、それを書いていた頃の馬琴の暮らしぶりを小説と交互に描写するという、斬新な趣向を凝らしている。これによって、おそらく全巻を読破した人は皆無と思われる『南総里見八犬傳』を楽しめるとともに、世界で初めて作家(戯作者)という職業を確立した馬琴の人柄を知ることができる。

それにしても、滝沢馬琴という人物は、ある種の怪物である。性格は謹厳実直で完璧主義者、さらに粘着気質。困ったことに、それを家族を含め他人にも要求するため、対人関係でいつもトラブルを抱えている。
どれだけ完璧主義かつ粘着質かというと、毎日のお金の出入りから始まって、天候、出来事を実に事細かに記しているのだ。例えばこんな調子である。「沢庵漬け三樽、内一番は当座食六十本、ぬか三升塩一升八合。二番は百本、ぬか五升、塩六升八合、三番は八十本、ぬか三升塩六升五合、右三樽、お百お路(妻と息子の嫁の名前)両人にて漬け終わる。残り四十本はぬかみそに入る」。天候も一刻(約二時間)ごとの変化を記す。これを毎日欠かすことなく続けるのである。『南総里見八犬傳』にしても、物語だけをとれば10分の1程度で済むのに、合間合間に注釈や説教が長々と入る。そのため、完成までに28年もかかっている。これほどの粘着気質の人物は古今東西を探してもいないのではないか。

そんな人物がなぜ八犬傳のような奇想天外な物語を思いつくのか。友人として登場する葛飾北斎も首をひねり、山田風太郎は「奇跡としか言いようがない」と書いている。同時に、滝沢馬琴は「作話症」というある種の精神病ではなかったかと推論している。
何はともあれ、この『八犬傳』は実に面白い。種本の『南総里見八犬傳』に至っては、今の出来のいいファンタジー小説と比べても何ら遜色がないばかりか、着想そのものは現代作家を軽々と凌駕している。1800年前期にすでにこんな物語を書いた作家がいたという事実に、ただただびっくりすると同時に、日本人の端くれとして誇らしく思うのは私だけではないだろう。ぜひご一読を。


posted by ギャンブラー at 12:41| Comment(2) | 活字の楽しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

元日の朝

謹賀新年

大晦日は「孤独のグルメ」特別編、その直後に「紅白歌合戦」のサザンを見て年納めとした。ここまではいつも通りの平穏な年の瀬だったのだが、それから後がいけなかった。
寝たのは年が改まってすぐで、いつもの就寝時間に比べると少し早かったのだが、午前3時前、ふと目覚めて、自分がすごく嫌な気分であることに気づいたのである。年をまたいで持ち越した仕事のことで頭が一杯になり、それがきっかけとなって、どんどん嫌なことが頭に浮かんできたのだ。精神科医から見れば典型的な不安神経症なのだろう。「よりによって、新年早々これかよ」とぶつぶつ言いつつ、なんとか眠りについたのだが、浮かない気分のまま新年の朝を迎えた。
はっきり目覚めてから考えると、不安の元だったことは、まだ自力でどうにでもできることであり、なぜあんなに不安を覚えたのかわからない。長期の年末年始休暇で気が緩んで、普段は押さえ込んでいる漠とした不安が表にポッカリ浮かんできたのだろう。それにしても、いったいいくつになったらもっと泰然と物事に処することができるのか。凡夫は凡夫、死ぬまでこんなことが続くと諦めるしかないのだろう。

元日は、おせちを肴に、アルコール抜きの特製シャンパンで一人祝った。あとは、見たいテレビも聞きたいラジオもなく、午前から午後にかけてインターネットで豊島二冠と藤井七段の特別対局を見ている。
穏やかと言えば穏やか、何かとても大切なものが失われつつあると思えば思える、そんな年明けである。目出たくもあり、目出たくもなし。

posted by ギャンブラー at 13:56| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする