2019年11月24日

センスの話


競馬は秋からこっち、いや、春からこっち連戦連敗である。筋悪ながら競馬歴30年以上、いくら何でもこれはひどい。脳が衰えてきているのかと思うが、もう一つの趣味である将棋は、ポカはあるものの、かえって強くなっているという手応えがある。結局、競馬脳の偏差値がかなり低いのだろう。偏差値という言葉が適切でないなら、センスと言い換えてもいい。センスばかりは生まれつきのものだから、努力だけでは如何ともできない。それでも勝負事と縁を切れないのは、まさしく「下手の横好き」というしかなかろう。

今日のジャパンカップも、センスのない予想を披露しようか。センスのある人は、私の軸馬や対抗馬を外せば大儲けできるはずである。

東京は、この季節にしては珍しい3日連続の大雨。これで俄然面白くなってきた。パンパンの良馬場なら、おそらく実績通りの決着になる確率が高まるが、ここまで馬場が渋くなれば、紛れも大きくなる。

◎は、レイデオロ。なんだ人気馬かと言われそうだが、ここまで人気が割れているなら、これを軸馬にするメリットは大きい。最強馬のアーモンドアイが不在なら、この馬が最も強いはず。左回りオール連対の上、重実績もある。
◯は、エタリオウ。1勝馬に過ぎないが、決め手不足が災いしているだけで、実力にさほど遜色はない。馬場悪化で浮上するタイプ。
同じく▲ダンビュライトも同タイプだ。

人気馬のワグネリアン、スワーヴリチャードは私にはさほど強いとは思えない。先週の天皇賞で◎を打ったユーキャンスマイルも不安定な追い込み脚質にしては人気し過ぎ。まとめてバッサリ切る。馬券を当てたい人は、これらの馬を選べば、かなりの確率でくるはずだ。



posted by ギャンブラー at 10:20| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月27日

VUCAの時代


VUCA(ブーカ)という言葉をご存知だろうか。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)という単語の頭文字で、ひと言でいうと「予測不能」を意味する。主にビジネスの世界で用いられるが、昨今の自然災害を見ると、改めて21世紀という時代に生きることの困難さを思い知らされる。
自然災害だけではない。超高齢化社会に伴って、老齢ドライバーの運転する車がいつ猛スピードで突っ込んでくるかわからない。あるいは、見知らぬ狂人が、理解できない理由によって自分に襲いかかってくるかもしれない。こちらは普通に生きているだけなのに、それまでの平穏だった暮らしが突如暗転する。考えてみれば人類の歴史はその繰り返しであり、別に今に始まったことではないが、あまりにも日常とのギャップが大きすぎるために、ショックも大きい。

その対策はあるのだろうか。予測不能なカオス的状況である以上、そんなものはない、と言うしかなかろう。我々にできることは、最悪のケースを想定しておくことと、日常を精一杯生きることしかないのだろう。

VUCAと言えば、競馬などその最たるもの。予測すること自体に無力感を覚えるが、日常を忘れ、刹那の興奮を味わうために、不可能なことに挑戦せざるを得ないのである。日常を精一杯生きる、と言った舌の根も乾かないうちに、日常を忘れるために賭け事をする。人間こそがカオスなのだろう。

◎は、ユーキャンスマイル。アーモンドアイが世界最強クラスの馬であることはわかっているし、サートゥルナーリアの強さも無視できない。スタート直後に不利のあった前走は無視できるダノンプレミアムの巻き返しも気になる。しかし、左回り3戦3勝のこの馬の差し脚に望みをかけたい。


posted by ギャンブラー at 10:13| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

菊花賞

忙しい、忙しいと言いながら、気がつけばもう秋である。これから先は坂を転げ落ちるようにすぐ年の瀬となり、やれやれと安堵の吐息をつきながら年末年始の休暇を終えたら、またアクセク・・・いや、やめよう。こんな愚痴を並べていても意味がない。
それよりは、菊花賞で一発当てて、つかの間溜飲を下げようではないか。

軸は、スミヨン騎乗のヒシゲッコウ。ヴェロックスとの13倍馬券を入場券代わりにして、テレビ観戦する。
posted by ギャンブラー at 09:25| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月11日

夏野菜


ようやく夏らしい気候になって、高騰していた野菜の値段も下がってきた。この季節、私の料理の定番といえば、チリコンカンとラタトイユ、それにこの「だし」だ。見るからに涼しげで、夏野菜がたっぷり入っている、というか夏野菜だけでつくっているから、身体にも良さそうである。

だし.jpg

明日は久し振りに仲間と大井競馬に出撃の予定。年初からず〜と仕事に忙殺され、「人生、ろくなもんじゃねえ」が口癖になっていたので、ここらでリフレッシュしてきたい。ま、大負けしてストレスがさらにたまる可能性が大ではあるのだが。

お盆には何年ぶりかで実家に帰省する予定にしているが、台風直撃の影響でどうなることやら。世の中、ままならないものだ。


posted by ギャンブラー at 09:09| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月30日

とっておき


今、世の中を騒がせている問題を一挙に解決する腹案が私にはある。夢物語ではなく、現実的で理にかなっていると思うのだが、ま、実現は無理だろうな。

■反対票(拒否票)制度の導入
先の参議院選挙の投票に私は行かなかった。行くのが面倒臭かったからではない。入れたい候補者、党が皆無だったからである。「民主主義国家に住み、その仕組みの中での暮らしを享受している以上、投票に行く義務がある」「不満があっても、投票しないということは現状を受け入れるということだ」といった声があることはよく承知している。また、「たとえ意中の候補者や党がなくても、細かいところには目をつぶって、なにがしか共感できる人物や党に入れたらいい」という人もいる。どれもごもっともな意見であり、同時に、無意味な能書きである。投票したいと思う人物や政党がないのに、なぜ無理に投票しなくてはならないのか。そんな素朴な疑問に対して、なるほどと腑に落ちる答えに接したことが、不幸にしてない。世の無党派層と言われる人たちのかなりの部分は、私のようなタイプではなかろうか。
そんな人でも投票に行きたくなるとっておきの制度が、反対票制度の導入だ。これは、どうしても当選させたくない候補者と、勝ってほしくない政党に「×」をつけて投票し、これも1票としてカウントする制度である。例えば、10万票を集めた候補者もしくは政党があるとする。一方、反対票が2万票あったら、その候補者もしくは政党の最終的な得票数は8万票となる。もちろん、1人1票だから、反対票を投じたら、それ以外に投票はできない。これで少なくとも投票率が10%は上がるのではなかろうか。

■補強選手制度の導入
夏の高校野球の岩手県予選で、大船渡高校の佐々木投手が決勝戦に登板しなかったことに、議論が巻き起こっている。高校には抗議の電話が殺到しているそうだが、バカな人たちがいるものだ。考えるまでもなく、監督の判断は正しい。まだ筋肉も骨格も未熟なのに、150キロ前後の球を短期間に何百球も連投することは投手として自殺行為に他ならない。何も永久に投げさせないというのではないのだ。いずれ彼の投球をじっくり堪能する機会はあるはずで、その前に肩や肘を壊して引退してしまっては意味がない。日本を代表するプロ野球投手の大部分が、今回の監督の判断を支持しているのは、彼らもまた、かつて理不尽な投球過多を経験し、今も故障に泣かされているからだ。事実、高校時代の異常な投球過多によって故障した選手は枚挙に暇がない。いや、無事だった投手はいないといってもいいだろう。ある外国人のジャーナリストは、これを「虐待」とまで言っている。
この問題を一挙に解決する方法が、補強選手制度だ。これは、社会人野球の甲子園と言われる都市対抗で用いられている制度で、地区予選で負かしたチームの中から、これはと思う選手を3人までレンタルできる。補強選手に選ばれると、そのチームの一員として試合に出ることができる。
他校の選手を入れることは、地区の代表として出場する甲子園大会の趣旨にそぐわないという人もいるだろう。その人に問いたい。では、越境入学で他県から有望選手をかき集め、「わが故郷の代表でござい」と大きな顔をしている有名校は許されるのか。東北のチームなのに、レギュラー選手のほとんどが関西弁をしゃべっている現実をどう言い繕うのか。
私の案はこうだ。まず、他の都道府県からの越境入学は不可とする。その上で、地区予選も含めて、投手は中2日以上空けなければ登板できない。地区予選で優勝したら、負かしたチームの中から、投手に限って3名まで補強することができる。補強を行わない選択肢もある。甲子園では、それまでの地区予選でかなりの球数を投げていることを考慮して、投手は中3日以上空けなければ登板できない。1イニングだけ投げても中3日以上空けなければならないのかといった、細かいルールは詰めなければならないが、少なくとも、こうすれば投球過多を防止し、なおかつ過密スケジュールをこなすこともできる。興醒めなタイブレーク制の導入などより、よほどいい制度だと思うのだが。

■コンプライアンスの徹底?
売上高700億円の中堅企業の幹部社員が、会社に無断で副業をし、その相手が犯罪者集団だった。普通の会社なら、ほぼ間違いなく懲戒免職となるだろう。しかし、それが芸能界だったらどうなるのか・・・と、ここまで書いてきて、何だか馬鹿らしくなったから、ここらで筆を置く。



posted by ギャンブラー at 00:55| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月14日

性格


私の性格をひと言でいうなら、「沸点が低い」。生まれてこの方、心の底から怒ったり、泣いたり、喜んだ記憶がない。自分でもつまらない人間だと思うが、性格なのだから仕方がない。そのためだろうか、感情をすぐ表に出す人が苦手である。そういう人を前にすると居たたまれなくなり、こちらが恥ずかしくなってしまう。
人はよく、そんな私を温厚な性格だと評することが多いが、温厚なのではなく感情の起伏が少ないだけだ。温厚というより、冷淡と言ったほうがより正しい。

しかし最近、そんな性格が少し変わってきた気がする。これは激情家になったということではなく、逆により冷淡になったというほうが当たっている。具体的にいうと、ある人物に対する不快感が増すと、「この世から消えてなくならないかな」と願ってしまうのだ。以前は、こんなことはあまりなかった。もちろん殺意を抱くのではなく、ただただ自分の前から永遠に消えてもらいたくなるのだ。
「不快感」にはいろいろある。自分が正しいと凝り固まって、その基準から攻撃してくる人、一事が万事で、良い面は都合よく忘れてこちらを全面否定する人、こちらの気持ちはお構いなしにぐいぐい迫ってくる人、どうしようもなく怠惰な人・・・。

結局は、歳をとるにつれて堪え性がなくなってきたということなのだろう。最近は、それもまた自然の流れと考えて、その流れに身を任せようと思っている。




posted by ギャンブラー at 13:15| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月25日

じり貧ニッポン


ある経済界の重鎮が、「平成の時代の日本は負け戦の連続だった」と言ったそうだ。確かに、液晶テレビも半導体も中国や台湾、韓国のメーカーにやられて壊滅してしまった。その間、日本のメーカーが勤しんでいたのは、国内市場だけを見たガラパゴス機能を付け加えることだけで、それを尻目に、アップルはiPhoneを生み出し、ダイソンは画期的な掃除機や扇風機を開発した。ドローンも、今や世界で圧倒的なシェアを誇っているのは中国メーカーである。もっと悲惨なのはAIに代表されるIT業界で、日本は世界から周回遅れどころか2周も3周も引き離されているそうだ。

それなのに、「日本のモノづくりは世界一だ!」と信じて疑わない日本人が今も非常に多い。「iPhoneたって、日本製の部品がなければ動かないんだぜ」とか「ファーウェイのスマホは日本から輸出した部品で成り立っているのを知ってるか」などと胸を張る人が少なくない。部材供給メーカーなんて、客から無理難題を吹っかけられて右往左往しているのが実態だし、後発メーカーが出てきた途端、買い叩かれる運命にあるのに・・・。

テレビでは毎日のように、日本のモノづくりや伝統を礼賛する外国人を日本に呼んで悦に入る番組が放映されている。もはや痛々しいというしかない。現実を見れば、日本最大の企業・トヨタでさえ、時価総額では世界で20位にも入っていないのだ。
かつて日本人は、外国との比較で自分たちが劣っていると感じたとき、知恵を絞り、しゃにむに努力することで難局を切り開いてきた。そんな気概が今の日本人にあるのだろうか。外国人のおべんちゃらにニタニタ笑っているような状況ではないのである。

それは私の馬券生活にも当てはまる。先週のオークスではカレンブーケドールの複勝をやっとこさ当てたが、一番人気馬との馬連は持っていなかった。250倍もついたのに・・・。じり貧とはこういうことを言う。

さて、ダービーである。基本的に堅いレースだが、昨年はコズミックフォースの複勝を当てた。なんと30倍以上もついた。複勝でこんな高配当はめったに出ない。あれ? いつの間にかオレも過去の栄光に酔ってばかりで現実を見ようとしない、情けない存在に成り果ててしまったのか。

◎は、サトノルークス。惨敗した皐月賞は忘れよう。なんと言っても、堂々の3連勝馬なのである。大舞台でアッと言わせることの多い池添の一発に期待する。複勝で。


続きを読む
posted by ギャンブラー at 20:01| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月03日

出てこない


「平成最後」だ「令和初」だと、マスコミのどんちゃん騒ぎには心底うんざりするな、などと例によって斜に構えながら新聞を読んでいたら、ちょっとショッキングなことが起こった。

私が取っているのは読売新聞だが、平成最後の記念なのか、3日連続で平成年間を彩った「時の人」の顔写真を計数百人掲載していた。朝起きてそれを見ていて、異変に気づいたのである。それぞれ有名人だから、ほとんどの人は誰だかわかる。ところが、名前が出てこないのだ。それも一人や二人ではない。例えば、卓球の愛ちゃんやフィギュアスケートの真央ちゃん。そこまではわかるのだが、名字ってなんだったっけ。喉元まで出かかっているのだが思い出せない。
そうやって一人ひとり名前を言おうとするのだが、半分以上の人の名前が出てこなかった。気になって、そこには載っていない人物を思い浮かべて名前を言おうとするのだが、これまた出てこない。例えば、STAP細胞の有無で世間を騒がせた彼女の名前は? 先日、週刊新潮のデスクと三度目の獄中結婚をして話題になった死刑囚の女の名前は? いずれも珍しい名前だったというところまでは覚えているのだが、そこから先は濃霧に包まれている。

もともと人名を記憶するのは苦手だった。一度会って名刺を交換しただけの人は、一瞬後には名前を忘れている。それは若い頃からのことだから、特に驚かない。しかし、こんなに有名な人物の名前が出てこないのは異常ではないか。ひょっとして初期の認知症か?と思ったらゾッとした。動揺しつつ新聞の別面に出ていた答えの人名を見て「そうだ、そうだった」と確認し、1週間たってから脳内でテストしたところ、ほとんどの人名を言うことができた。だからそれほど深刻な事態ではないのかもしれないが、得体の知れない気持ち悪さは今も残っている。

会社の同僚や知人の中で、親が認知症になった人が何人もいる。その苦労話を少し聞いただけで、この問題の深刻さがよくわかる。ある友人は、「もし自分の親でなければ、認知症の進んだ人間はゾンビというしかない」とまで言った。
幸い、米寿の老母を含めて親族の中に認知症の人はいないが、だから自分も大丈夫という保証はどこにもない。特に、独り者の私など、認知症になったら悲惨である。そう思うと、新元号がどうのこうのと太平楽は言っていられない。脳を鍛えるために、さっそく週末に迫った競馬の予想に全力集中だ!



NHKマイルカップ予想
posted by ギャンブラー at 17:01| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月30日

春だったね



冷たい空気の中にも万物の芽吹きを感じるこの季節になると、この曲が聞きたくなる。毎年聞いても、何度聞いても、聞き飽きることがない。はるか昔に過ぎ去った青春時代への感傷であることはもちろんわかっている。わかっていて、それでも聞きたくなる。歌詞は以下の通りである。

僕を忘れた頃に
君を忘れられない
そんな僕の手紙がつく
くもりガラスの窓をたたいて
君の時計をとめてみたい
あゝ僕の時計はあの時のまま
風に吹きあげられたほこりの中
二人の声も消えてしまった
あゝあれは春だったね

僕が思い出になる頃に
君を思い出にできない
そんな僕の手紙がつく
風に揺れるタンポポをそえて
君の涙をふいてあげたい
あゝ僕の涙はあの時のまま
広い河原の土手の上を
ふり返りながら走った
あゝあれは春だったね

ここには、平成J-POPの定番である「桜舞い散る」や「きっと」「ずっと」などという、耳に心地よいけれど空疎な言葉はない。それどころか、「風に吹きあげられたほこり」だったり、「河原の土手の上」という、なんとも無粋な言葉が平然と並んでいる。しかし、そのふてぶてしいような野性味が、平成のお子ちゃま向けの歌にはない昭和=拓郎の歌の生命力であり、魅力である。

……とまあ、そんなに力み返らなくてもいいか。こんな歌を聞いて大人になった世代であることに感謝しつつ、もう一度聞こう。

posted by ギャンブラー at 23:39| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

元日の朝

謹賀新年

大晦日は「孤独のグルメ」特別編、その直後に「紅白歌合戦」のサザンを見て年納めとした。ここまではいつも通りの平穏な年の瀬だったのだが、それから後がいけなかった。
寝たのは年が改まってすぐで、いつもの就寝時間に比べると少し早かったのだが、午前3時前、ふと目覚めて、自分がすごく嫌な気分であることに気づいたのである。年をまたいで持ち越した仕事のことで頭が一杯になり、それがきっかけとなって、どんどん嫌なことが頭に浮かんできたのだ。精神科医から見れば典型的な不安神経症なのだろう。「よりによって、新年早々これかよ」とぶつぶつ言いつつ、なんとか眠りについたのだが、浮かない気分のまま新年の朝を迎えた。
はっきり目覚めてから考えると、不安の元だったことは、まだ自力でどうにでもできることであり、なぜあんなに不安を覚えたのかわからない。長期の年末年始休暇で気が緩んで、普段は押さえ込んでいる漠とした不安が表にポッカリ浮かんできたのだろう。それにしても、いったいいくつになったらもっと泰然と物事に処することができるのか。凡夫は凡夫、死ぬまでこんなことが続くと諦めるしかないのだろう。

元日は、おせちを肴に、アルコール抜きの特製シャンパンで一人祝った。あとは、見たいテレビも聞きたいラジオもなく、午前から午後にかけてインターネットで豊島二冠と藤井七段の特別対局を見ている。
穏やかと言えば穏やか、何かとても大切なものが失われつつあると思えば思える、そんな年明けである。目出たくもあり、目出たくもなし。

posted by ギャンブラー at 13:56| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月04日

老いについて


40も半ばを過ぎたあたりからだろうか。街を歩いていて、偶然窓ガラスに映った自分の顔を見たとき、「誰だ? この老けた男は」とショックを受けることが次第に多くなった。あるいは、写真に写った自分の顔を見て、イメージしている姿よりずっと老化が進んでいる現実に愕然とすることも珍しくなくなった。

そして60をいくつか過ぎた今、姿形だけを見れば、れっきとした老齢の男である。そのせいか、30前後の若い女性と2人で飲みに行ったとき、人からどのように見られているのだろうかなどと、余計なことを気にするようになった。

こんなはずではない。仕事は今もバリバリこなしているし、能力・知力の衰えを感じたこともない。体力は多少減退したが、それでも前をチンタラ歩いている人をスイスイ抜きながら歩いている。それにもかかわらず、見た目は老人。こんな理不尽なことがあるだろうか。

「人は見た目が9割」という、容赦のない言葉がある。若い人だけでなく老人もまた、というより老人こそ、自分の見た目に「こんなはずではない」と戸惑っている人が多いはずだ。若いころ、老人というのは、身体も心も老成している人だと思っていたが、いざ自分が歳をとってみると、身体は老いても心は未だに壮年のままというのが現実であることを思い知らされている。
現役を引退した人が、サミュエル・ウルマンの「若さとは、精神のあり方で、肉体的な年齢ではない」という詩をよく引用するが、これなど、自らの肉体の老いを強く意識していることの裏返しであろう。もし将来、老化を食い止め、若返りを可能にする遺伝子治療が実現したら、真っ先に病院に駆けつけるのはこの詩の信奉者ではないかと、秘かに思っている。

歳をとれば、誰しも歯が抜け、髪が抜け、目がかすみ、皮膚には皺とシミが広がる。程度の差はあれ、これはいかんともしがたい。そのとき、自らの老いつつある身体をどのようにして受け入れるか。他人にはどうでもいいことだが、本人にとっては大問題である。超高齢化時代を迎え、何百万人もの人がそんな思いを抱えながら生きていることを考えると、長生きすることが本当に幸せなのだろうかと、考え込まざるを得ない。


posted by ギャンブラー at 23:34| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月25日

会津への旅

この3連休を利用して、会津地方へ出かけてきた。大内宿、鶴ヶ城、喜多方と回る1泊2日の旅である。以下、写真で。

浅草を9時発の東武特急で出発、湯野上温泉駅に着いたのは午後1時であった。東京は快晴だったのに、現地は雨模様で、そのうち本格的に雪が降ってきた。初雪らしい。
大内宿は江戸時代の宿場町で、茅葺き屋根の建物が通りの左右に並んでいる。私はほとんど興味はないが、同行者が「どうしても見たい」というので行った次第。あまりの寒さに見学はほどほどにして、蕎麦屋に入る。東北はどこに行っても蕎麦が名物だが、もともとは飢饉対策の救荒食であって、つべこべと能書きを垂れるほどの食べ物ではない。
唯一、大内宿での拾い物は、通りに軒を連ねる素朴な土産物屋で見つけた蜂蜜とジャムである。いずれも現地産とのことで、栃の木の花、柿の花、蕎麦の花、山桜、野バラなどの蜜が小壜に詰められて並んでいるのを発見したとき、私の“保存食愛”はいたく刺激された。また、桑の実のジャムは、いずれ自分で作りたいと思っていたので、速攻で購入した。
それにしても、こんな天候なのに結構な人々がこの地を訪れているのには驚かされた。なぜこれほどこの観光地に惹かれるのか、ひねくれ者の私にはさっぱりわからない。

お土産.jpg
珍しい蜂蜜の数々

泊まったのは湯野上温泉。料金が安いのであまり期待していなかったのだが、これはうれしい誤算。紅葉のシーズンはすでに終わっているせいか、大浴場は貸し切り状態。泉質も湯温も穏やかでいい。特に、翌朝に入った露天風呂から見た、淡く雪化粧した東北の山々は絶品であった。夕飯と朝食もなかなかのもので、思わず笑顔になった。

宿.jpg
露天風呂が最高だった宿泊先

翌朝、チェックアウト後に、旅館の裏にある雑木林を散策した。身の引き締まる冷気の中、赤や黄色の落ち葉の絨毯の上を歩く。この落ち葉すべてを身にまとっている木々を想像すると、それだけで壮観だが、落ち葉になった景色もまた風情がある。

秋の終幕.jpg
分厚い落ち葉の絨毯

一般に会津若松城で知られる城を、地元の人は鶴ヶ城と呼ぶ。この城は他の観光地化した城と根本的に異なるものがある。それは「怨念」の存在である。
会津藩は1868年の戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられ、薩長軍に敗れた。その際の白虎隊の悲劇は有名だ。しかし、勝ち負けは戦いだから仕方がない。事実、その4年前の禁門の変のときは会津藩が長州藩を叩きのめしている。問題は薩長による戦後処理で、会津藩士の屍は通りに打ち捨てられ、烏についばまれるままにされたという。さらに、斗南という荒涼とした土地に放逐され、多くが寒さと飢えで死んだ。この恨みを、会津人は未だに忘れていない。その証拠に、今年2018年は明治維新から150年ではなく、彼らは「戊辰150周年」と呼ぶ。その幟が、鶴ヶ城を中心に市内の至る所に掲げられていた。
城の内部に入ると、いかに会津藩士が義に殉じ、筆舌に尽くしがたい辛酸をなめたかが、これでもかと言うほど例を挙げて展示されている。日本人は何でもすぐ水に流すと言われるが、150年たった今でも決して忘れていないのは、よほどのことがあったのだろうと思わざるを得ない。

鶴ヶ城.jpg
鶴ヶ城

宝の山.jpg
天守閣から望む磐梯山

口直しに、城内にある茶室で抹茶を一服。いい抹茶茶碗があれがついでに買いたかったのだが、今回はなしにした。

抹茶.jpg
なかなかのお点前

会津まで来たら喜多方ラーメンを食って帰ろうと、現地まで出かけた。市内の至る所にラーメン店があって、その中には長蛇の列ができている店もあるが、すぐ横に廃屋が放置されていたりする。喜多方は蔵の町とも言われていて、川越に少し雰囲気が似ているが、ラーメンだけでは将来の展望は開けないだろう。
適当に入った店で食べたラーメンは、普通に美味しかった。写真は、撮り忘れてない。



プライベートの旅は数年ぶりで、いかに自分が仕事漬けのつまらない人生を送っているかを身に染みて感じる旅であった。次はいつ行けることやら。


posted by ギャンブラー at 16:34| Comment(5) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月14日

悲劇の結末

悲劇は突然起こった。予兆など、何もなかった。気がつくと死骸が3体。いったい何が起こったのか・・・。

11月に入り、朝夕冷え込むようになった。熱帯魚がいる水槽の水温も25℃を下回ってきた。そろそろヒーターが必要な頃合いだと思い、サーモスタット機能のついたヒーターを水槽内にセットして、コンセントにつないだ。あとは放っておいても水温は25℃に保たれる。
しかし、ここで私は致命的なミスを犯してしまった。サーモスタットはセンサーがあって初めて機能する。そのセンサーを水槽に入れるのをうっかり忘れたのである。室温は20℃前後だったから、水温がどんどん上がっても、水槽の外にあるセンサーは20℃を感知したままだ。そのためヒーターは25℃にすべく水を熱し続ける。気がついたときは、3匹の熱帯魚は白い腹を上にしてプカプカ浮いていた。
業務上過失致死−−。相手が人なら私はすぐ牢屋行きだ。しかし、彼らはもの言わぬ小魚である。彼らにしてみたら、なんと理不尽なことであろうか。相手を釜茹でにした憎むべき刑事犯の私は罪悪感に苛まれながら彼らの遺骸を引き上げ、ベランダにあるプランターの土を掘り起こして埋めた。心で手を合わせながら。証拠隠滅という言葉がチラリと心に浮かんだ。

かくして、水を満々とたたえた水槽だけが残った。それまで水槽には10匹前後の熱帯魚が泳いでいたが、次々と寿命を迎え、最後に3匹だけが残った。彼らが天寿を全うしていなくなったら、私もこの趣味を封印するつもりでいたのである。経緯はともかく、熱帯魚がいなくなったのだから、あとは水槽を片付けるだけだ。ところが、水を全て抜いて砂を取り出し、その砂を乾燥させ・・・と結構面倒臭い。今度の連休までこのままでいいやと、いつもの悪癖が出て問題を先送りすることにした。

ところが翌日の夜、ぼんやりと水槽を見ていた私の脳裏に、一つのアイデアがひらめいたのである。熱帯魚だからヒーターが必要だった。だったら、ヒーターなどいらない在来種の川魚を飼えばいいではないか。そういえば、自分は昔からアユやオイカワなどの川魚を飼うのが夢ではなかったか。さすがにそれは無理だが、小型の魚なら飼える。いや、飼おう。
次の休日、私は行きつけの熱帯魚店にいそいそと出向き、川魚コーナーに突進した。そこで購ったのが、写真の魚である。名前を「イトヨ」という。トゲウオ科で、小さいながら鮭と同じ回遊魚である。環境省のレッドリストに載っていて、めっきり数が減っているらしい。そのせいか、1匹650円もした。寿命は1年と短いから、万全のケアをしてやろう。餌は配合飼料など論外で、冷凍赤虫にしよう。給餌は朝夕2回がいいだろう・・・と至れり尽くせりである。

そんな私の心と身体を操っているのは、理不尽な死を迎えた3匹の熱帯魚かもしれない。


イトヨ.jpg
posted by ギャンブラー at 00:15| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月23日

近況

■印刷博物館で冷や汗をかく
三連休の1日、江戸川橋にある印刷博物館に出かけた。小説『活版印刷 三日月堂』(ポプラ文庫)の特別展があると聞いたからである。活版印刷というのは今では過去の遺物となった印刷方法だが、その独特の風合いから、今も根強い人気がある。その火付け役となったのがこの小説で、ここでは、「とにかく読んでみてください」と言うにとどめておく。
博物館では、事前に申し込めば実際に活字を拾って詩集を印刷するワークショップを体験できるらしい。この日も展示スペースの一角で行われていた。見ると、なんと参加者は全員若い女性である。実は私も申し込もうと思っていたのだが、あの中に一人オッサンが入っている情景を想像したら、冷や汗が出た。
そんな不完全燃焼の気分を払拭するため、小説に出てくるコースターや栞をショップで2セット買い込むはめになった。1セットは、やはりこの小説が大好きだという会社の女子にプレゼントしようと思っている。

コースター.jpg

■大量の茗荷を買い込む
私は茗荷が大の好物で、夏になると必ず浅漬けにして食べる。キュウリの乱切りと茗荷に一塩し、漬け物器で押し漬けするのが我が流儀で、夕飯の副菜として重宝している。
ところが、今年は酷暑のため茗荷が異常に高い。3個入りで200円もする。たかが茗荷が1個70円! それでも好物なので泣く泣く買っていたのだが、今日スーパーに行ったら、大量の茗荷が1袋600円で売っていた。おそらく40個は入っているだろう。後先も考えず、速攻で買い物かごに放り込んだ。
とはいえ、茗荷は傷みやすい。いくら好物とはいえ、一度に大量に食べられるものでもない。結局、保存食にして辻褄を合わせるしかない。まず水洗いしたあと、縦に二分する。それらをポリ袋に入れ、粗塩小さじ1を加えて軽く揉んで冷蔵庫に入れる。3時間ほどたったら冷蔵庫から取り出し、軽く水洗いしたものを堅く絞って保存容器に入れる。そこに、梅干を漬けたときにできた梅酢をドボドボと入れる。これで出来上がり。おそらく2週間は持つだろう。茗荷と梅酢の清冽な香りを嗅いだら、ようやく今年の夏も一区切りついたように感じた。

茗荷.jpg


posted by ギャンブラー at 19:31| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月16日

往く夏

真夏のアンニュイな昼下がり。外気温は35度を超えているらしい。こんな日はどこにも出かけず冷房の効いた室内にいろ、とラジオの気象予報士が繰り返し呼びかけている。それはそれで正しい忠告なのだろうが、何もせずに夏をやり過ごすことは、人生の無駄遣いのように思えてならない。おそらくその焦燥感は、遠い日の記憶と分ちがたく結びついている。人生の楽園ともいうべきあの幼い日の夏には、人が人らしく生きるために必要なものがすべて詰まっていたように思う。だからこそ、この歳になっても、いや、この歳になったからこそ、夏を無為に過ごすことを惜しむ気持ちが強いのだろう。

とはいえ、現実的な問題として、こんな酷暑の日にわざわざ出歩く気にはならないし、行くあてもない。仕事がらみで都市対抗野球を観戦しに後楽園に出かけたことは出かけたのだが、それがなければ連日、部屋の中でぼうっとしているしかない。

さすがにそれはないだろうと思ったから、仕込んである梅干をこの3連休で仕上げることにした。一週間ほど早い気もするが、天候も気温も絶好の条件が揃ったのだから、思い立ったが吉日と、干し網を引っ張り出して梅を1つずつ並べてベランダで干した。お陰で仕上がりは上々。梅干はもちろん、梅酢、赤紫蘇を乾燥して粉砕した「ゆかり」と、捨てるものは何もなく、これほど始末のいい食べ物は他にはなかろう。

梅3品.jpg

夏はまだ始まったばかりという人もいるだろうが、夏至からすでに1ヵ月近くがたち、確実に日は短くなっている。「あぁ、夏が過ぎ去っていく」と思っても、何もすることのない自分が腹立たしい。

posted by ギャンブラー at 16:15| Comment(8) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月05日

お茶入門

常々、一度やってみたいなと思いながら、なかなか踏ん切りがつかないというものがある。例えば燻製料理。やれば面白かろうし美味しいことはわかっているのだが、マンションの狭いキッチンでチマチマとやるには若干の抵抗がある。かといってアウトドアでやるには、インドア派の私にとってはもっとハードルが高い。結局、いつまでたっても手がつかない。

もう一つはお茶。といっても茶道を本格的に学ぼうというのではなく、自宅で気軽にお茶を点てたいものだと思いながら、忙しさにかまけて、いつも忘れてしまう。その点、GWは時間にも精神的にも余裕ができる。そこで思い切って茶道具を入手したのである。

何かを始めるには、今は非常に便利な時代である。ネット通販で何度かクリックをすれば、翌日には品物が届くし、動画サイトを覗けば、正しい作法を丁寧に教えてくれる。苦労せずに始められるぶん冷めるのも早くなって、結局は本質を掴むことはできないという見方もあろうが、私のようにせっかちな人間にとってはありがたい環境にあることは間違いない。

お茶.jpg

見よう見まねでお茶を点て、おずおずと口に運んでみると、これがなかなかいい。豊かなお茶の香りと清冽な渋味に、体の内側が洗われるようである。「こりゃ、はまるな」との予感がする。

いろいろな道楽があるが、茶道具だけはやめておけという言葉があるそうだ。それだけ、凝り始めたらきりがなく、気がついたら一財産がなくなっているという意味らしい。そんな心配をするような財産は私にはないから、その点は安心だが、早くも、安価な入門用の道具に飽き足らなくなっている。「できるだけ早い時期に、見た目も手触りも自分にしっくりくる茶碗を買おう」と、気持ちだけが先走っている。

posted by ギャンブラー at 11:55| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

不思議な日本人


最近、日本とは何か、日本人とは何か、などとエセ司馬遼太郎みたいなことを考えている。とはいえ、凡百の思考能力しかない我が身、たいしたことが言えるはずもない。ただ、そういう意識を持っていると、聞くもの読むものの中から何かしら心に引っかかるものが出てくる。

例えば、こんな識者の発言だ。ぜひ音声で聞いてほしい。
https://www.tbsradio.jp/227873
敗戦の翌年にスタートし、連載終了から40年も経つマンガ『サザエさん』。もはや時代錯誤も甚だしい内容なのに、あるいはスポンサーの東芝がつぶれそうなのに、何が何でも後生大事に番組を続けようとするのは、「高度経済成長期の「古き良き日本」の亡霊から逃れられない、“変われない”日本社会を象徴している」と五郎さんは指摘する。これから人口が激減し、このままでは国が成り立たなくなるというのに、何でも開発、何でも右肩上がりの思考を捨てられない日本って、かなり頭が悪い。

こんな記事にもなるほどと膝を打った。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/022200132/
日本人はおとなしい、政府や大企業に何をされても怒らない、とよく言われる。でも、私が学生のころは毎日のようにデモがあったし、大学にはバリケードが築かれて一部の学生が「反体制」を叫んでいた。その内容自体の是非はさておいて、とても「日本人はおとなしい」とは言えない時代もあったのだ。それが今では、たいしたデモもないし、まして暴動につながるような不穏な雰囲気は微塵もない。その理由を著者の小田嶋さんは、「一介の労働者に過ぎない多くの日本人が、なぜなのか、国策や日本経済を語る段になると「経営者目線」で自分たちの暮らしている社会を上から分析しにかかっている」からではないかという。現実は支配され搾取されている存在にもかかわらず、支配し搾取する者の視点で思考する。こんな奇妙奇天烈な国民は他にあるまい。

こんなことを考えていると気が滅入るばかりなので、カーリング女子のべっぴんさんたちの活躍に拍手し、あるいは、15歳の中坊が並みいる将棋の天才たちをなで切りにする様に感心する。そんなことで気を紛らわせております。


posted by ギャンブラー at 11:19| Comment(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月09日

付録がすごい


私が万年筆好きであることは、このブログでたびたび書いてきた。
そんな私が今朝新聞を読んでいると、えらい広告が目に飛び込んできた。オヤジ向け月刊誌の『サライ』1月号を買うと、漏れなく太軸万年筆がついてくるというのである。雑誌の値段は1000円でお釣りがくる。それに本格的な万年筆がついてくるというのだから、どんな仕組みになっているのかと思うのだが、そんなことはともかく、久々にリアル書店に走って『サライ』を買ってきた。

帰宅してさっそく付録のパッケージを開けると、葛飾北斎デザインの小紋柄をあしらった「北斎ブルー」の万年筆が確かに入っている。いかにも中高年読者の好みそうな姿形をしていて、実に心憎い。
ここ数年、女性誌を中心に豪華付録が話題になっているが、いよいよオヤジ雑誌の世界にもその波が押し寄せてきたようである。ちなみに、『大人の科学マガジン』という雑誌を買うと、小さな活版印刷機がついてくるという。値段は4000円弱と少々高めだが、こちらも買う気満々である。


北斎万年筆.jpg


posted by ギャンブラー at 14:53| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

はしご歌


歌はほとんど聴かない。しかし、気持ちがモヤモヤする日が続いたりすると、心が歌を欲することがある。そんなときは、youtubeで「はしご歌」をする。例えばこんな歌だ。



まず、小椋佳と尾崎紀世彦という組み合せが意外である。日本の余情の極致を行くような小椋佳の詞を、いかにもバタ臭くて歌唱法も日本人離れしている尾崎紀世彦が歌う。マッチするはずがないと思うのだが、これが驚くほど馴染みがいい。
この歌を聞くと、尾崎紀世彦というのはやはり天性の声を持つ歌い手だということがわかる。それと同時に、小椋佳の詞の見事さにただ唸るばかりである。

夢の夕陽はコバルト色の空と海
まじわってただ遠い果て
かがやいたという記憶だけで
ほんの小さな一番星に追われて消える


とか

ウォーターメロンの花の中に
かぞえきれない長い年月うたた寝をする


とか

背中の夢に浮かぶ小舟に
あなたがいまでも手をふるようだ


とか、どうしたらこのような言葉を紡げるのだろう。この歌を聴いていると、何かあたたかいものが心の襞に染みわたってきて、落としどころを求めてさまよっている不安な気持ちを鎮めてくれる。

こんな歌も聞く。



昔のラジオ番組のため音質は悪いが、それでも長渕剛の、吉田拓郎とその歌を愛する素直な気持ちが伝わってきて、ほのぼのとした気持ちに包まれる。当時の長渕のハスキーボイスからは、強く握れば割れてしまう、うすはりガラスのような繊細さと鋭さが感じられ、私は好きだ。
彼はその後、マッチョで極端な物言いをするアクの強い人になってしまった。彼はもう二度と、あの声でこんな感傷たっぷりの歌を唄うことはないのだと思うと、失われた時の虚しさになす術もない。

最後はやはり藤圭子。



この歌は私より一世代古い時代の反戦歌だが、それより何より、何度聴いても歌のうまさに惚れ惚れとしてしまう。最近、カラオケのように100点満点で歌の巧拙を採点する音楽番組をよくやっているが、彼女の歌はそういう次元で測れるレベルではない。歌の持つ根源的な力とはこういうものかと思わざるを得ない。

こんな古い歌ばかり聞いていて何がいいのか、と思う人がいるだろう。私だってそう思う。でも、70年代に青春時代を過ごした私には、最近の歌は何も響かない。ごく例外を除けば、雑音のようなものだ。まぁ、歳をとったということです。


posted by ギャンブラー at 22:58| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

休日を平穏な気持ちで過ごす法


私は小さい頃から生真面目かつ気に病む性格で、心配事や悩みを引きずるタイプである。気になることを抱えたまま休日を迎えると、そのことばかりを考えてしまい、鬱々として楽しめない。
こういうことを言うと、「休みの日くらい、すべてを忘れてのんびり過ごしたらどう?」とか、「気分転換のために趣味を楽しめばいいじゃないか」などと言う人がいる。それでアドバイスをした気になっているのを見ると、「バカか、こいつは」と思う。こっちはそれができないから困っているのであって、できるならとっくにやっている。

思うに、私のような人は多いはずだ。というか、世界で最も生真面目で心配性なのが日本人らしい。例えば朝の出勤電車では、大局的に見れば大過のない人生を送っている人が多いはずなのに、なぜかみんなイライラして、眉間にしわを寄せている。仕事をしていても、実に細かいことにこだわり、完璧でないと「失敗した」とみなされ責任を追及される。なんと余裕がなく、不幸な国民であろうか。

そんな不幸な国民の一人ではあっても、休みの日くらい穏やかな気持ちで過ごしたいのが人情というものである。そのために私は、長年の試行錯誤の結果、以下のようなことによって心の安定を図っている。

・週明けにやってもいいけれども、心の重石になっている仕事は、土曜に着手してある程度メドをつけておく。そうすれば、あとの時間を心おきなく休める。

・同じく、週明けに出さなければならない気の重いメールは、土曜のうちに文面をつくっておく。そうすれば、あとの時間を心おきなく休める。

・仕事や対人関係など、精神的に負担になっている問題は、たとえ場当たり的でもいいから対応策と実施時期を決めてしまう。あるいは、自分が譲歩して解決することなら、できる範囲で譲歩すると決める。そうすれば、気持ちに一区切りがつき、精神的に楽になる。

・問題や悩みに無関係な友人と会って、その問題でなくてもいいから話をする。あるいはその友人の悩みを聞いてあげる。それができないなら、自分を悩ませている問題について、文章に書く。そうやって思いを外に吐き出せば、ある程度心が軽くなる。

・一人でいいから、身近に愚痴を言える仲間・同志をつくる。

・可能な限り、第二、第三の手を考えておく。対応策が一つしかないと、それがダメになった場合のことを考えてしまい、かえって不安が増す。

・守勢一辺倒の姿勢から、問題に対して攻撃することを考える。これはポジティブ・シンキングとは違う。むしろ「窮鼠猫を噛む」に近いが、意外と気持ちが楽になる。

・攻撃までいかなくとも、何らかの行動を起こす。そうすれば変化が生まれ、選択肢が増えたり、事態が好転する可能性が出てくる。

・問題や悩みが解決したら、その大きさに見合った買い物をして自分に褒美を与える。それを習慣化すれば、意識せずとも、問題解決への前向きな気持ちが育まれる。未解決の段階で買い物をして気分転換を図るのも悪くはないが、効果は一時的なものに終わってしまって虚無感だけが残る。


改めてこれらを見ると、なんと切ない生き方かと思うが、無意味で無責任な助言に比べて、これらの方法は具体的で、けっこう効果があると思っている。いずれにしても、我がことながらご苦労なことである。

posted by ギャンブラー at 10:20| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする