2017年11月10日

はしご歌


歌はほとんど聴かない。しかし、気持ちがモヤモヤする日が続いたりすると、心が歌を欲することがある。そんなときは、youtubeで「はしご歌」をする。例えばこんな歌だ。



まず、小椋佳と尾崎紀世彦という組み合せが意外である。日本の余情の極致を行くような小椋佳の詞を、いかにもバタ臭くて歌唱法も日本人離れしている尾崎紀世彦が歌う。マッチするはずがないと思うのだが、これが驚くほど馴染みがいい。
この歌を聞くと、尾崎紀世彦というのはやはり天性の声を持つ歌い手だということがわかる。それと同時に、小椋佳の詞の見事さにただ唸るばかりである。

夢の夕陽はコバルト色の空と海
まじわってただ遠い果て
かがやいたという記憶だけで
ほんの小さな一番星に追われて消える


とか

ウォーターメロンの花の中に
かぞえきれない長い年月うたた寝をする


とか

背中の夢に浮かぶ小舟に
あなたがいまでも手をふるようだ


とか、どうしたらこのような言葉を紡げるのだろう。この歌を聴いていると、何かあたたかいものが心の襞に染みわたってきて、落としどころを求めてさまよっている不安な気持ちを鎮めてくれる。

こんな歌も聞く。



昔のラジオ番組のため音質は悪いが、それでも長渕剛の、吉田拓郎とその歌を愛する素直な気持ちが伝わってきて、ほのぼのとした気持ちに包まれる。当時の長渕のハスキーボイスからは、強く握れば割れてしまう、うすはりガラスのような繊細さと鋭さが感じられ、私は好きだ。
彼はその後、マッチョで極端な物言いをするアクの強い人になってしまった。彼はもう二度と、あの声でこんな感傷たっぷりの歌を唄うことはないのだと思うと、失われた時の虚しさになす術もない。

最後はやはり藤圭子。



この歌は私より一世代古い時代の反戦歌だが、それより何より、何度聴いても歌のうまさに惚れ惚れとしてしまう。最近、カラオケのように100点満点で歌の巧拙を採点する音楽番組をよくやっているが、彼女の歌はそういう次元で測れるレベルではない。歌の持つ根源的な力とはこういうものかと思わざるを得ない。

こんな古い歌ばかり聞いていて何がいいのか、と思う人がいるだろう。私だってそう思う。でも、70年代に青春時代を過ごした私には、最近の歌は何も響かない。ごく例外を除けば、雑音のようなものだ。まぁ、歳をとったということです。


posted by ギャンブラー at 22:58| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

休日を平穏な気持ちで過ごす法


私は小さい頃から生真面目かつ気に病む性格で、心配事や悩みを引きずるタイプである。気になることを抱えたまま休日を迎えると、そのことばかりを考えてしまい、鬱々として楽しめない。
こういうことを言うと、「休みの日くらい、すべてを忘れてのんびり過ごしたらどう?」とか、「気分転換のために趣味を楽しめばいいじゃないか」などと言う人がいる。それでアドバイスをした気になっているのを見ると、「バカか、こいつは」と思う。こっちはそれができないから困っているのであって、できるならとっくにやっている。

思うに、私のような人は多いはずだ。というか、世界で最も生真面目で心配性なのが日本人らしい。例えば朝の出勤電車では、大局的に見れば大過のない人生を送っている人が多いはずなのに、なぜかみんなイライラして、眉間にしわを寄せている。仕事をしていても、実に細かいことにこだわり、完璧でないと「失敗した」とみなされ責任を追及される。なんと余裕がなく、不幸な国民であろうか。

そんな不幸な国民の一人ではあっても、休みの日くらい穏やかな気持ちで過ごしたいのが人情というものである。そのために私は、長年の試行錯誤の結果、以下のようなことによって心の安定を図っている。

・週明けにやってもいいけれども、心の重石になっている仕事は、土曜に着手してある程度メドをつけておく。そうすれば、あとの時間を心おきなく休める。

・同じく、週明けに出さなければならない気の重いメールは、土曜のうちに文面をつくっておく。そうすれば、あとの時間を心おきなく休める。

・仕事や対人関係など、精神的に負担になっている問題は、たとえ場当たり的でもいいから対応策と実施時期を決めてしまう。あるいは、自分が譲歩して解決することなら、できる範囲で譲歩すると決める。そうすれば、気持ちに一区切りがつき、精神的に楽になる。

・問題や悩みに無関係な友人と会って、その問題でなくてもいいから話をする。あるいはその友人の悩みを聞いてあげる。それができないなら、自分を悩ませている問題について、文章に書く。そうやって思いを外に吐き出せば、ある程度心が軽くなる。

・一人でいいから、身近に愚痴を言える仲間・同志をつくる。

・可能な限り、第二、第三の手を考えておく。対応策が一つしかないと、それがダメになった場合のことを考えてしまい、かえって不安が増す。

・守勢一辺倒の姿勢から、問題に対して攻撃することを考える。これはポジティブ・シンキングとは違う。むしろ「窮鼠猫を噛む」に近いが、意外と気持ちが楽になる。

・攻撃までいかなくとも、何らかの行動を起こす。そうすれば変化が生まれ、選択肢が増えたり、事態が好転する可能性が出てくる。

・問題や悩みが解決したら、その大きさに見合った買い物をして自分に褒美を与える。それを習慣化すれば、意識せずとも、問題解決への前向きな気持ちが育まれる。未解決の段階で買い物をして気分転換を図るのも悪くはないが、効果は一時的なものに終わってしまって虚無感だけが残る。


改めてこれらを見ると、なんと切ない生き方かと思うが、無意味で無責任な助言に比べて、これらの方法は具体的で、けっこう効果があると思っている。いずれにしても、我がことながらご苦労なことである。

posted by ギャンブラー at 10:20| Comment(2) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

えにっき


先日、田舎の老母から米が届いた。私の実家は兼業農家であって、米は買うものではなく送ってもらうものなのだ。いつもなら、段ボールの中には、米だけでなく、梅干であったり、焼き海苔であったり、缶詰であったり、漬け物であったり、さまざまなものが入っていることが多い。

しかし、今回届いた段ボールには、そうした食べ物は何もなく、一冊のノートが入っていた。それは、私が小学校1年生の夏休みに書いた絵日記帳だった。母がどういうつもりでそんなものを入れたのか、わからない。そもそも、60年近く前のノートが存在していることが驚きである。ノートを開けると、クレヨンで描いた稚拙な絵と、ひらがなだらけの文章が目に飛び込んできた。パラパラとそれを拾い読みしていると、思い出すことや意外な発見があった。

絵日記1.jpg

・毎朝6時に起きて、小学校にラジオ体操に行っていたが、当時は夏とはいえ早朝は肌寒くて、ランニングシャツ1枚では辛かった。朝早く起きるのも苦痛で、できればパスしたかった。でも、日記には「とてもよいきもちでした」と書いている。この歳ですでにホンネとタテマエを使い分けていたらしい。

・すいかが大好きだった。これは今も変わらない。

・我が家では夏に大掃除をしていたらしい。絵を見ると、どうやら畳干しをしていたようだ。

・「しょうにまひのくすりをのみに」学校へ行ったという記述がある。本当に飲み薬だったのだろうか。

・「かみなりがだいきらいです」と書いている。実は今も苦手である。

・お盆の夜に「ぶらすばんどをみにいきました」とあるが、あんな草深い田舎にブラスバンドが来たとは思えない。何だったのだろうか。

・やまだ(宇治山田)に行ったとき、二階建ての電車を見たらしい。近鉄だと思うが、当時そんな電車があったのだろうか。

・うさぎを飼っていたらしい。まったく覚えがない。

こんなものを保管しておいてくれたのは有り難いことではあるが、それにしても、女というのはなぜこうも物持ちがいいんだろう。

絵日記2.jpg


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2017年07月17日

近況


■ゲスとクズ
先日の都議選は棄権した。そのこと自体はどんなに批判されても仕方がない。でも、昨今の政治家の放言や行状を目にしていると、「なんでこんなゲスやクズに俺の1票を投じなければならないのだ。選挙で当選したからといって、お墨付きを得た気になって『何でもありだ』などといい気になるんじゃねえぞ」という苦々しい思いが急激に膨れ上がってきて、どうしても投票所に足が向かなかったのである。
ここにきて、安倍政権の支持率が急落しているそうだ。首相本人の人格的欠陥や、女性防衛大臣の無能さ加減を毎日のように見せられれば、当然の結果だろう。とはいえ、受け皿となるべき民進党は、受け皿どころか党そのものが消滅寸前だし、マスコミがよく使う「賢明な有権者が自民党にお灸を据えた」ということで、次の選挙では自民党がそこそこ善戦するだろう。どこが「賢明な有権者」だと思うが、所詮、国民のレベルに見合った政治家しか持てないわけだから、仕方がないか。

■何かが変わり始めている
将棋の藤井四段がプロ入り初戦から29連勝を遂げた。30戦目は負けたが、その後も連勝して、プロになって負けたのは1戦のみという快進撃である。彼の出現によって、将棋ソフト不正使用疑惑で信用の落ちた日本将棋連盟が息を吹き返したという見方がもっぱらであるが、私はむしろ「終わりの始まり」だと見ている。つい先日、AIソフトが時の名人を子供扱いしたように、将棋プロの存在価値が値下がりを続けていることは間違いない。誰も表立って言わないが、羽生だって今のAIソフトには全く歯が立たないだろう。そもそも藤井四段自体、将棋ソフトを研究に取り入れてから飛躍的に強くなったという。つまり、AIに育てられた天才中学生棋士が、他のプロを蹴散らしているのが今の将棋界である。私が連盟会長なら、喜ぶどころか夜もおちおち寝ていられないのだが……。
それにしても、藤井四段といい、卓球の十代選手といい、その活躍は「まるでマンガのよう」としか言いようがない。そもそも、野球の大谷選手がプロでピッチャーと野手の二足のわらじを履いて大活躍したことがマンガそのものであって、ディープラーニングによって高度な知能を持ったAIの出現と相まって、何かが大きく変わり始めている気がする。

■夏の過ごし方
この3連休は、初日に会社で仕事をした以外、何もせず、どこにも行かずという2日間だった。毎週末、鮎の友釣りを満喫している人や、豪華客船で父島に出かけた人に比べれば、なんと貧しい休日の過ごし方だろうか。
私がこの休日にしたことと言えば、酷暑の中、連日、隅田川テラスに出かけたことくらい。新大橋と清洲橋の中間あたりの日本橋側、遊歩道から一段高い所に小さな公園がある。そこの日陰のベンチに座って、ぼんやりと景色を眺めたり、文庫本を読んで2時間ほど過ごした。そこに行くのは、気分転換ということもあるが、目の保養という意味のほうが大きい。毎日パソコン画面や周囲1mくらいしか見ずに過ごしているので、目の前に広がる川面と広い夏の青空を眺めているだけで、目が喜んでいるのがわかる。遊歩道に降りて散策すれば、半裸のような格好をした若い女性がジョギングしているのに出くわして、思わず目をそらせてしまうが、やはり別の意味で目の保養にはなる。
夏が到来すると、「何かしなければ」「どこかに行かなければ」と居ても立ってもいられなくなるものだが、そんな焦燥感を感じることが少なくなったこと自体、歳をとったということだろう。


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2017年05月27日

安住の地


二十歳のとき、京都から東京に出てきた。最初に住んだのは中野新橋で、それ以降、新高円寺、三鷹、立川、神楽坂と移り住み、今は隅田川のほとりで暮らして10年になる。人と比べて引っ越しが多いのか少ないのか、私にはわからない。その時々、風の向くまま気の向くまま適当に選んだ街の不動産屋さんに行き、二〜三の物件を案内してもらったら、その場で即決する。それが我が流儀で、案内してくれた不動産屋の社員から、「えっ、もういいんですか?」とよく驚かれたものだ。私にとって東京は所詮仮り暮らしの街であって、駅からそれほど遠くない所に、寝るために帰る部屋があればそれでよかったのだ。そんなふうだから、過去に住んだ所には何の思い入れもなければ、懐かしさもない。

ところが、つい最近になって、あの頃住んでいた下宿は今どうなっているのだろう、あのアパートは今もあるのだろうか、などと気にかかるようになった。どのような心境の変化なのか、自分でもよくわからない。これが歳をとるということかと思うが、特に体力・気力が衰えたという自覚もないから、理由は謎である。しかし、実際問題として気にかかるのだから仕方がない。行ってこの目で確かめようではないか。
というわけで、5月のはじめ、つまりゴールデンウィークに、冒頭にあげた街を訪ね歩くことにした。現地に行ったら当時の思い出がどっと押し寄せてきて、胸が一杯になった・・・などということが果たして起こるのだろうか。まさかそこまで感傷家ではあるまいと思いつつ、何かに触発されて心境に変化をきたすかもしれぬ、という一抹の期待があったことも事実である。

中野新橋は、新宿から地下鉄丸ノ内線に乗って中野坂上まで行き、そこから盲腸線に乗り換えて一つ目の駅である。街は何も変わっていなかった。もちろん多少の変化はあるが、特に栄えもしなければ廃れてもいない。すり減った駅の階段も当時のままである。とはいえ40年以上前のことだから、その頃下宿していた家がどこだったか、正確にはわからない。それでも記憶を辿って路地に入り、「確かこの辺だったよな」ときょろきょろ周囲を見渡すのだが、それらしき家もなければ表札もない。もっとも、大家さんはその頃すでにかなりの老齢だったから、間違いなく鬼籍に入っているし、家も建て替えられているだろう。結局、何の手がかりもつかめないまま、駅に戻らざるをえなかった。帰りの車中、自分はもう二度とこの街を訪れることはないのだという思いが脳裏をよぎったが、特に何の感慨も湧かなかった。

次に訪れた新高円寺と三鷹でも事情は同じで、私が下宿していた家も人も、今では跡形もなく消えていた。あるのはあたりに漂うよそよそしさだけで、それが私の心に無常観という名の薄い膜となって沈着した。いや、一つだけ懐かしかしい出来事があった。新高円寺から中野に抜ける商店街に、よく行っていた喫茶店が当時のままの店構えで営業していたのである。引き寄せられるようにフラフラと店内に入ったら、イスもテーブルも当時のままだった。さすがに懐かしくて、ところどころ破れたイスと黒ずんだテーブルを手で撫でながらコーヒーを飲んだ。
立川と神楽坂は、それほど昔のことではないからアパートがそのまま残っていた。だからといって、特に懐かしいというわけではない。そんな自分の反応にいぶかしさと物足りなさを感じつつ、さっさと現地を確認し、さっさと帰ってきた。

こうして、過去をたどる小旅行は終了した。いったい何を期待してこのようなことをしたのか、今もってよくわからない。わかったことはただ一つ、この40年の間、私はただあてもなく東京の街を浮遊してきたということだけだ。

私にとって、安住の地はどこにあるのだろうか。


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2017年05月08日

玩物喪志


この大型連休は、どこにも遠出をしなかったかわり、デパートやネットで買い物に勤しんだ。男の買い物など、たかが知れている。それでも、二つ折りの革の財布、REGALの靴、パーカーのボールペンなど、一つひとつをとればそこそこの値段だから、結構な出費となった。しかもこれらは、ないならないで何ら困らないものばかりである。どうやら、「買う」という行為を通して、独りで過ごすゴールデンウィークもまた楽し、と自らに言い聞かせたかったのかもしれない。

そんな中でも、自慢の買い物はこれこれである。まさに不要不急のもので、人によっては、そんなものを買って何が楽しいのかと思うだろう。でも、こうした趣味の小物は、身近にあるだけで心を豊かにしてくれる。振り返れば、そんなものをそばに置いて暮らしを楽しむということが久しくなかったような気がする。

例えば万年筆用インク。パイロットから出ているものだが、そのコンセプトといいネーミングといい、よほどの切れ者が企画したに違いない。何しろインクの名が「月夜」「霧雨」「露草」「竹林」「夕焼け」……である。思わずそのインクで手紙を書きたくなるではないか。私が買ったのは、全24色の中から好きな3つを選んで小壜に詰めたもの。ちなみに、選んだのは「月夜」と「竹炭」と「冬柿」の3色である。

万年筆つながりで、ロール式のペンケースも買った。インクと同じパイロット製になったのは、全くの偶然である。私は少々値の張る万年筆やボールペンを何本か持っているが、それらを入れる気の利いたケースがなかった。かといって、あまり仰々しいものでは宝の持ち腐れになる。そんなことを思いながらネットを渉猟していたら、これを見つけたのである。完璧なフォルムと機能を備えた筆記具をこれでくるみ、無造作にクルクルと皮紐を巻いて手に持てば、それだけで幸せな気持ちになる。このデジタルの時代に、アナログの極致を行くのもまた、心地良い。

そういえば「玩物喪志」という言葉があったなと思い出すが、今はささやかな物欲を満たすことを良しとしよう。

インク3種.jpg
これが小壜のお好みインク3種

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柿好きとしては買わずにいられない「冬柿」

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こちらは普段使いのために購入した大壜の「露草」

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愛用の万年筆とボールペン

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皮紐で巻くとこのとおり

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2017年04月16日

春だったね


先週の土曜日、市ヶ谷から飯田橋にかけて続く外堀の土手に出かけて、花見をしてきた。雨模様の天気のせいか、思ったより人出が少なく、久し振りにゆったりとした気分で満開の桜の下を歩いた。大学も、その後勤めた今の会社もこの一帯にあって、私の若き日の東京暮らしはこのあたりを抜きにしては語れない。その桜も散って、今はマンションのベランダ越しに八重桜が咲き誇っている。

先日、長患いをしていた会社の同僚が亡くなった。若き日、彼とは毎日のように飲み歩いた仲である。とっくに覚悟していたことではあるが、彼とともにあの日々が消えてしまったようで、気持ちの落としどころが未だにわからない。

おとといの金曜日、大学時代の友人が故郷の九州に帰ることになったので、仲間が集まってささやかな送別会を開いた。学生だった頃から40年もたって、その後の人生も今の境遇もそれぞれ異なるが、友人たちの本質は何も変わっていない。それがうれしいような、不思議なような気がする。

そして今、コーヒーを飲みながらラジオを聞いていたら、この曲が流れてきた。そうなんだ、あの頃は春だったんだなと思いつつ、この曲を口ずさんだ。思ったより自分の声は小さく、かすれていた。



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2017年03月25日

ブログの終焉


思えば長く続いたものである。私がこのブログを開設したのは2004年11月だから、13年近くになる。この間、書きたいことは最初の1年か2年でほぼ書いてしまった。その後に書いた文章は、折々の心に浮かんだ変奏曲を文字にしたようなもので、ブログを通して何かを伝えたい、表現したいという瑞々しい気概は時を経るにつれてどんどん摩滅してしまった。その原因は単なる加齢なのか、それとも別にあるのか、我がことながら判然としない。

私だけでなく、交流のあるブロガーも事情はたいして変わらない。10年以上続いている人はまれで、多くの人がブログから去ってしまった。続いている人だって、こまめに更新している人はごくわずか。ときどき思い出したように更新するか、休眠状態のどちらかである。

最近は、TwitterやFacebook、LINE、Instagramなど、手軽な媒体、というのかアプリというのか、SNSの手段が格段に増えたことも大きい。世の中、手軽なものへ手軽なものへと加速度的に進んでいて、ブログはその流れから弾き出されてしまったようにも見える。それで困るかといえば、何ら痛痒を感じはしないが……。

このブログを閉めるということは考えていないが、更新を期待している人が一人でもいたら申し訳ないので、これからは(も)月イチか、数ヵ月に一度の更新になることをお断りしておく。競馬の予想もしない。こちらは、予想しても全く当たらないので意味がないからである。

もし再び頻繁に更新するようなことがあるとしたら、3.11のような大災害時か、とんでもない出来事が身の回りに起きたときであろうかと思う。ま、そんなことが起きないことを祈るばかりである。


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2017年02月11日

近況報告


■乳酸キャベツ
糖質制限食を始めて1年余り。この間、体調は良好である。たまに風邪を引くことはあるが、以前なら完治するまでに最低でも1週間、下手をすると10日近く長引いていたのに、今では3〜4日で治ってしまう。悩みらしい悩みといえば、体重が増えないことだ。痩せ形の私にとって、あと2〜3kgは増えてほしいのだが、食べても食べても太らない。糖質をあまり摂らないので、内臓脂肪として蓄積されないのだと思う。

献立も悩みの種だ。独り身のいい加減さで、気がつくと毎食毎食、食べるものが同じになりがちなのである。例えば、ここ1年、朝は無調整豆乳コップ1杯と、低糖質クリームパン1個。昼は五分搗きのご飯に自分で焼いた卵焼き、ウインナー、焼き魚、ブロッコリー(夏はプチトマト)と決まっている。夕飯は、週末に作り置いたスープカレーか肉の煮込み料理、同じく作り置きのローストポークもしくは鶏肉のソテー、自家製の蕪の浅漬けを組み合わせて食べている。さすがに飽きてくるから、新メニューを加えようと試行錯誤を繰り返している。

最近作ったのが乳酸キャベツ。NHKの「きょうの料理」でやっていたので、さっそく作ってみた。キャベツ丸1個を細かく切って塩と少量の砂糖を加えて軽く揉み、ジプロックに入れて重石をし、室温で数日放置する。そうすると発酵が始まって酢漬けキャベツのようになる。これを密閉容器に入れて冷蔵庫で保管すれば、1ヵ月は保つ。まあ、それほどうまいものではないが、妙に癖になる。コショウ粒やハーブを入れれば、また違った味を楽しめるかもしれない。

最近、会社の女子がヨーグルトメーカーを買った。それで作ったヨーグルトをもらって食べたら、なかなかうまい。聞くと、牛乳に市販のヨーグルトを入れてセットしておけば、翌日にはヨーグルトになっているとのことである。なるべく高価なヨーグルトを投入するのがコツだそう。ただ、家族がいるならお買い得だろうが、独り身に必要かどうか、迷いに迷っている。

■名著
世界的なベストセラーになっている『サピエンス全史(上下)』を読んだ。これはまぎれもなく歴史的名著である。アフリカ大陸の片隅で細々と命をつないでいたホモ・サピエンスがなぜ食物連鎖の頂点に立ち、地球を支配するようになったのか。そして、これからサピエンスにはどのような未来が待ち構えているのか。細かい内容については書かないが、ページをめくるたびに目から鱗が落ちる内容で、ぜひ一読をお勧めする。人類600万年の歴史の流れの果てに、自分という一匹のサピエンスがたたずんでいる。少なくともサピエンスに殺されるだけの家畜に生まれなかった幸運に感謝しなければならないが、一方で彼は果たして幸福なのかどうか、考え込んでしまう一冊である。

『罪の声』は、ある意味衝撃的な小説だ。小説である以上フィクションだが、本当にフィクションなのだろうかと疑念が湧くほど、凄みのある作品である。あのグリコ・森永事件で犯人からの指示に使われた男の子と女の子の声を私もありありと覚えているが、あのときの子供は、その後どのような人生を送ったのか−−。当事者の一人である男性を軸に、当時の事件の全容を明らかにしていく筆致には、執念さえ感じさせる。例によって詳しい内容は書かないが、あまりにも過酷な運命に切なくなり、あくまでフィクションであってくれと祈らざるを得なかった。

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2017年01月11日

いやな感じ


昨年末から年明けにかけて、なんだか「いやな感じ」につきまとわれている。虫の知らせ、というやつかもしれない。理由はいくつかある。

一つは、天変地異発生の予感である。昨年の熊本地震でもわかるとおり、日本に住んでいる限り、いつ大規模な自然災害に遭遇してもおかしくない。地震だけでなく、火山の噴火やスーパー台風の襲来もある。みんな「自分や自分の家族は大丈夫だろう」と思っているが、個人的な身の安全など大した問題ではない。人間、一人の例外もなく、いつか必ず死ぬからだ。それよりは、そういう事態になったときの社会的・経済的影響のあまりの大きさ、深刻さを思うと、慄然とならざるを得ない。
理論的に最も恐いのはカルデラ噴火である。これが起これば日本の人口が半減するという学者もいる。中でも九州の鬼界カルデラはそろそろ噴火の時期を迎えているらしい。ちなみにこのカルデラは七千年ほど前に大噴火を起こし、当時九州に住んでいた縄文人を全滅させた。もし同じ噴火が起これば、九州から西日本、中部にかけて、有史以来最悪の被害が出る。カルデラはほかにもたくさんある。そのうちの一つが明日噴火するかもしれない。100年後かもしれないし、1000年後かもしれないが、いつか噴火することは間違いない。別に終末論を振りかざす気はないが、事実として、カタストロフィーは必ず起きる。政治家も企業人も、市井の人も、誰もがそのことに目をつぶり、何ら対策を考えることなく生きている。それがとても不思議であり、恐ろしい。
有効かどうかはともかく、各戸が空気フィルター完備の地下シェルターをつくり、最低でも1年分の水・食糧を備蓄するくらいのことをしてもいいと思う。今、そんなことをする人がいたら、ほぼ狂人扱いされるだろうが。

もう一つは、AIの進化である。実はこの年末から正月にかけて、囲碁界始まって以来、最大の事件が起こった。突如ネットに謎の棋士が現われ、プロ棋士をなで切りにしたのである。なんと60戦60勝、しかも消費時間はゼロ。負けたプロ棋士の中には、世界最強の中国人棋士や日本の井山6冠もいるという。謎の棋士の正体は、昨年、世界トップ棋士の一人である韓国人棋士を4勝1敗で破ったグーグルのアルファ碁の新型、つまり最新型AIソフトである。その強さは別次元で、「石器時代に住む人類を、自動小銃を持ったロボットが襲ったようなもの」と表現したプロ棋士がいる。大天才のはずのトップ棋士に対して全く考慮時間を使わず、赤子の手をひねるように負かしてしまったのだ。さらに恐ろしいことに、AIソフト同士は今も1日24時間対戦していて、加速度的に強くなっているという。今のソフトも、1ヵ月後にはその時点の最新型ソフトに歯が立たなくなるというのだ。それを1年間続ければどういうことになるのか。私の貧弱な頭脳が導き出した答えは、こうだ。「神」が出現する−−。

いずれにしても、これによって、職業としての囲碁の歴史は事実上幕を閉じた。彼らが長年にわたって蓄積してきた定石、戦い方が意味をなさなくなったからだ。プロ棋士の団体である日本棋院・関西棋院は当分の間は残るだろうが、彼ら天才集団にこれまでのような高い価値を見出す人はもはやいなくなるだろう。
将棋界も同様で、昨年後半に起こった「三浦九段事件」(詳しいことは省く)は、AIに襲われた石器時代に住む棋士たちが右往左往した滑稽譚だったということになる。日本将棋連盟も日本棋院と同様、組織としては残るだろうが、早晩その使命を終えるだろう。これからは、ごく一部の人が、高度すぎて人間には理解できないAIソフトの棋譜を学究的に研究することになるのではないか。職業としての将棋棋士も細々と存続はするだろうが、スポンサーである新聞社が、AIに子供扱いされた彼らの棋譜を、毎年何億円も払って掲載するとは思えない。

「それはあくまで囲碁や将棋の世界の話でしょ」という人は、おめでたいとしか言いようがない。これからいろいろな分野で、同じようなことが次々と起きる。おそらくあと10年か20年で、人間のやる仕事の多くはAIに取って代わられるはずだ。それによって失業者が世の中にあふれるだろう。
雇用の最後の受け皿といわれるタクシー運転手は、自動運転車の普及によっていずれ駆逐される。長距離のトラックドライバーも同じ運命を辿るはずだ。介護や保育の仕事にも、AIを搭載した人型ロボットがどんどん導入される。そのほうが事故・事件も起きないし、ロボットのほうが気を使わなくていいという利用者が増えるだろう。
知的職業も同様だ。翻訳や通訳の仕事はAIが行うようになる。税理士や会計士もしかり。病気の診断や治療もAIが行うようになるから、医者はその使いっ走りのような存在になるだろう。新聞記事もAIが書くから、新聞記者はいらなくなる。もっとも、それまで新聞社があればの話だが。小説や絵画、音楽の世界にも、いずれAIが進出する。
これらは、長い期間をかけて徐々に進むのではなく、今も加速度を速めながら進行している。彼らAIは休むことなく、自らの能力をものすごい速度で高めているのだ。その結果、一夜明ければ一つの職業がなくなっていた、ということが十分起こりうるのである。

そのとき、人々は何をするのだろう。この社会はどうなるのだろう。そもそも人は何のために存在するのだろう。そういう問いが一人ひとりに突きつけられることは間違いない。

なんとまあ悲観的な、と人は言う。確かに悲観的である。AIが進化した社会では、人間はAIにかしずかれ、豊かな暮らしを謳歌できるという人もいる。しかし、そんな単純な話ではないと思う。人類が我が物顔にこの世を支配しているのは、発達した大脳皮質と、そこから生まれる知能があるからだ。だから、当然のように牛や豚、羊を殺して食べるし、鳥インフルエンザが流行すれば、予防措置として鶏を何十万羽も屠殺してはばからない。
しかし、その知能をはるかに上回る知能が出現したとき、人類の強みは強みでなくなる。わかりやすくいえば、人は今の動物と同じ立場になる。そのとき、人としての矜持や尊厳は音を立てて崩壊し、文明は衰微に向かうのではないか。

とはいえ、天災にしろAIの進化にしろ、実は私にはほとんど関係がない。何しろ長くてもあと20年ほどでこの世からいなくなってしまうからだ。だからそんなに気に病むことはない。平たくいえば、「オレの知ったこっちゃない」のである。それでもなお、このいやな感覚が消えないのは、ちっぽけな知能をよりどころにしてきた人類の一人としての、本能的な怯えなのかもしれない。


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2016年12月24日

人の器


最近、「人の器」ということを考える。正確にというか正直に言えば、「自分」という人間の器である。もちろん私は世俗にまみれた人間だから、他人から「あの人は器が大きい」と言われたい。実はその時点でもう器が小さいのである。そんなことはすっかりわかっている。でも、常にその思いを捨て切れない。

器はもって生まれたものであって、どうにもならないらしいから、せめて包容力のある人間のふりをする。内心はイライラしていても、何でもないように鷹揚な態度を装う。相手の失敗に腹を立てていても、大したことはないと励ましたりする。しかし、付け焼き刃だから、少し機嫌が悪かったり忙しかったりすると、すぐ地金が出てしまう。

石原慎太郎は若かった頃、若手議員有志とともに自民党内に青嵐会を立ち上げて、時の権力者で今太閤と言われていた田中角栄の金権体質を激烈に批判していた。マスコミも反金権政治の一大キャンペーンを張っており、さすがの角栄もかなり追いつめられていた。そんなある日ゴルフ場でばったり角栄と鉢合わせした。日頃が日頃だけに石原も気まずくて、しどろもどろしていると、角栄は「おう、石原君じゃないか。奇遇だなぁ。こっちで一緒に飯でも食わんか」と何のわだかまりもない顔で誘ってきたという。それに対して思わず「いろいろ失礼なことを言って……」と謝りかけると、角栄は、「何を言っとるんだ。お互い政治家なんだから、自分の信じる道を行けばいいんだ」と言ったという。もちろんそんな青臭いことを信じているはずはないが、とっさに、満面の笑みとともにそういう台詞を吐ける角栄という人は、やはり人間の器が大きいのであろう。

いや、そんな表面的なことを器が大きいというのではない、腹芸がうまいだけだという人もいる。本当に器が大きい人間とは、自分の信じた相手、あるいは自分が任せた相手にすべてをゆだね、一切口を出さずに経過を見守り、結果に対して一人で全責任を取る人だという。西郷隆盛とか山本五十六がこのタイプだったらしいが、本当かどうかは知らない。

こうなると小説の世界で、私などにはどうしようもない。結局、自分の小さな器に合わせて生きていくしかないのだろうか。たとえそうであっても、やはり、自分のことを優先するよりは、まずは若い人を励まし、支えてあげることを考える人間になりたいと思う。

恥ずかしげもなくそんなことを思うのは、やっぱり歳をとったから、なんだろうなぁ。


有馬記念予想
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2016年10月22日

本物

今、田舎から老母が上京中で、東京タワー、増上寺、隅田川クルーズ……とこの週末はアテンドに明け暮れている。84歳と高齢ゆえ、歩くスピード、食べ物など、日ごろの気ままな独り暮らしとは全くテンポが違うので、結構気を使う。
土曜日は銀座で歌舞伎鑑賞。本物を観るのは私も初めてで、さすがに迫力があった。イヤホンガイドも、恥ずかしながら日本の伝統芸能に無知な人間にとってはありがたい。とはいえ、これをきっかけに歌舞伎の面白さに開眼……とはいかなかった。正直なところ、大枚をはたいてでも何度も観たいとは思わないなぁ。


というわけで、先週の秋華賞に続いて菊花賞もケン。ただ、馬券を買うとしたら簡単だ。単勝ならディーマジェスティ。複勝ならエアスピネル。特に後者は、マカヒキ、ディーマジェスティ、サトノダイヤモンドの三強を除けば、明らかに能力上位。マカヒキが出ないのなら、3位入線は約束されたようなものだろう。可能性は低いがユタカマジックが決まれば単の目も。それが複勝でも4〜6倍もつくとは、おいしくて涎が出そうだ。みんななぜ買わないの?
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2016年07月24日

出不精の行く末


私は極めて出不精な人間で、休日は自宅から1km圏外に出ることがほとんどない。それにもかかわらず、日本全国、いろいろなところに出かけている。試しにこれまで行ったことのない都道府県を調べたら、青森県、秋田県、石川県、和歌山県、島根県、鳥取県、宮崎県、沖縄県だけだった。60年も生きてきて、まだそんなに行っていないところがあるの?という人もいるだろうが、旅行にも名所旧跡にも関心がなく、鉄ちゃんでもなく、まして飛行機大嫌い人間としては、特筆に値する行動範囲の広さである。

とはいえ、おそらく皆さん予想されているだろうが、行ったことのあるところはほとんどが仕事がらみである。従って、日帰りか、せいぜい1泊程度の慌ただしい日程だから、単に足を踏み入れたということに過ぎない。その土地のことを語るには、やはり一定期間暮らさなければ本当のところはわからない。
男と女だってそうでしょう。付き合っているときは気づかなかったことが、一緒に暮らすと露になるということが多々あるものだ。ま、経験はないですけどね。
そういう意味では、観光やレジャーですべての都道府県に出かけたという人も、私のように仕事でしか行ったことがないという人間も、さして変わりはないと言えるのではないか。

そんな埒もないことを考えるのも、仕事を引退後に住むにはどこがいいだろうと考えることが多くなったからだ。やはり都会が便利だよな、という思いの一方で、高原や海を見下ろす土地でのんびり暮らしたいという願望もある。それに加えて、最近は自然災害についても考慮に入れなければならない。移住先で逃げようのない災害に巻き込まれることはできる限り避けたい。考えれば考えるほど、身動きがとれなくなる。ここはもう、エイヤっと決断するしかないのだろう。

それとも、以前から夢想していたように、都会に簡素な拠点を構えて、あとは季節に合わせて各地を移り暮らす、というのがリタイア後の人生としては理想かもしれない。
そのためには健康が前提である。ちなみに、糖質制限食は今も続行しております。


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2016年07月10日

行くか行かざるか


イギリスで行われたEU離脱の是非を問う国民投票は、世界の、いやイギリス国民の予想すら裏切って離脱派が多数を占めた。その後に起こったポンドの下落や脱イギリスをほのめかす外国籍企業の動向などから、離脱派の浅はかさや、衆愚政治を嘲笑する世論が大勢を占めている。私自身、離脱ショックで手持ちの投資信託が大きく目減りした。「いったいどうしてくれるんだ!」と文句の一つも言いたいところだが、一方で、選挙の威力を思い出させてくれたという点で、この選挙には大きな意義があると思っている。

もっとも、イギリスで行われたのは国民投票であり、日本のような間接民主制にはない破壊力がある。そもそもこの制度は古代ギリシャのアテネで生まれたもので、当時はアテネ市民による直接投票で物事が決められた。その衣鉢を継ぐ古代ローマも、しばらくの間は直接投票を行っていたが、ローマ市民権を持つ人が急増し、かつ地中海世界全体に広がるにつれ、ローマだけで行われる選挙に全ローマ世界の意志が反映されるのかというジレンマに陥った。結局、ローマ帝国はジュリアス・シーザーの登場によって帝政への道を歩み出すことになる。つまり、直接投票は少人数では有効だが、一千万人単位の国民を有する国には適さない。

だから多くの国で現在のような間接民主制が行われているわけだが、立候補者は見ず知らずの人であり、選挙カーのマイクからブツ切れの空疎なスローガンを絶叫しているだけ。これで我々は何をよすがに投票すればいいのだろうか。しかも、その選挙の洗礼を受けて当選すれば、ザル法の政治資金規正法によって、私生活での買い物も経費で落とせる夢のような暮らしが待っていることは、舛添さんを見ればよくわかる。彼は責任を取ってやめたが、あの線引きで政治家のカネの出入りを精査すれば、ほとんどの議員は辞職に値するだろう。
しかし、泥棒が窃盗に厳罰を科す法律を望まないのと同じように、政治資金規正法を改正しようというような政治家は皆無である。つまり、我々は投票することによって、彼らが税金を湯水のように使える免罪符を与えているのと同じである。それは極端な見方だ、という批判はあるだろうが、全くの見当違いでないところが、虚しい。
共産主義が破綻して久しく、資本主義も行くところまで行って身動きが取れず、民主主義も色褪せつつある。いったい、これから我々の世界は何を政治や思想の基軸にしたらいいのだろう。

今日は参院選の投票日だが、17時30分の時点でまだ私は投票に行っていない。あと2時間ほどの間に、上記のような思いが消え去ることはもちろんない。それでも投票場に行って、税金使い放題の免罪符を、知りもせず共感もできない人物に与えるべきか、迷いは尽きない。



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2016年05月22日

何も変わらない


私は、寺社仏閣とそこに陳列されている仏像や書物、ゆかりの品などにほとんど興味がない。そんなものを見ても、何も心に響いてこないし、「それでどうしたの?」と思ってしまうのだ。有名な城も同じで、遠くからちらりと見れば十分。せいぜい巨大な石組みを見て、昔の高度な技術に感慨を覚えるくらいだ。従って、わざわざ時間と労力とお金をかけてそんなものを見物しに行く人の気が知れない。

なぜ興味が持てないのだろうと考えると、それらが「死んでいる」からだ。色褪せ、くすみ、朽ちかけている建物や仏像、掛け軸、書物、鎧兜、刀などを前にしても、往事の輝きや迫力はまったく感じられず、そこに住み、それらを手に取っていた人々の暮らしや時代の景色が伝わってこない。
そんなものを人混みにまぎれて見るくらいなら、近くの公園に出かけて、新緑に輝く欅とその上に広がる青空や、滔々たる流れの川辺で風に吹かれてぼんやりしていたほうがよほど幸せである。おそらく私は想像力が決定的に欠如しているのだろう。

そんな私が、昨日、大学時代からの仲間と川越散策に出かけてきた。川越は、「小江戸」の別名を持つ埼玉県の城下町で、最近は東京から近い観光スポットとして人気を博している。NHK連続テレビ小説の舞台になったことで有名な「時の鐘」や、蔵造りの町並み、駄菓子を売る菓子屋横丁などが有名だが、私には何の魅力も興味もなく、友人に誘われなければまず出かけないところである。

川越に来た観光客が必ず訪れるのが、喜多院である。ここは、9世紀に建立された天台宗のお寺で、江戸時代初期に天海大僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三代将軍徳川家光の乳母・春日局ゆかりの建物が有名である。とはいえ、その建物やそこに陳列されている品に私はまったく興味をそそられない。江戸城から移設されたという家光誕生の間を見て、何を感じろというのだ。こんな過去の遺物を前にして、本当にみんなは面白いのだろうかと不思議でしょうがない。

喜多院に隣接する五百羅漢も有名である。ここもまたたくさんの石像が並んでいるだけのところ……と思いきや、これが意想外に面白かった。羅漢とは聖人の意で、さまざまな表情をした石像が五百あまり並んでいる。その一つひとつを見ていると、いにしえの日本人の持つユーモア感覚、おおらかさ、喜怒哀楽がダイレクトに伝わってきて、思わず見入ってしまった。私がクダクダと説明するより写真を見てもらったほうが手っ取り早い。

五百羅漢1.jpg

五百羅漢2.jpg

五百羅漢3.jpg

五百羅漢4.jpg

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時を経ても、人間というものは何も変わっていない。昔の人も、現代に生きる私たちと同じように陽気に酒を飲んでいるかと思えば、失意にうち沈み、しんねりむっつり考え込む。これらの石像はそんなあたり前のことを教えてくれる。それだけでも来た甲斐があった。


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2016年05月07日

捨てる


GWは何もやることがないので、大掃除をすることにした。といっても、水仕事ではなく衣服の整理である。普段はファッションとあまり縁のない生活を送っているが、60年も生きていればそこそこ服もたまるのだ。

仕事では秋冬用と夏用のスーツをそれぞれ5〜6着ずつ着回しているが、いつの間にか着なくなったものや、そもそも買った途端に着るのが嫌になったものなどが結構眠っている。そのほとんどを思い切って捨てることにした。残したものはクリーニングへ。ワイシャツやネクタイも、少しくたびれてきたものは捨てた。

一方、私服はというと、いつの間にか、着ずに放置しているものが衣装ケースを占領していた。まずチノパン。なぜか5本もある。ジーンズも2本で、計7本もの似たようなズボンが眠っていた。以前に買ったことを忘れて同じようなものを買ったのだろうが、何もチノパンを5本もストックしておくことはない。色違いの3本を残して他は捨てた。
セーターも、一時はよく着ていたのに今ではほとんど着なくなったものがある。これらも捨てよう……と思ったのだが、よく見るとカシミアや上等のウールセーターが何着か混じっている。さすがにもったいないので、スーツと一緒にクリーニングへ。それ以外は廃棄。
冬用のカジュアルコートも何着かあった。そのほとんどはここ数年袖を通したことがない。つまり不要品である。これも捨てる。その他、ほとんど着ていないシャツ、ポロシャツ、Tシャツ、買ったはいいが今ひとつ足にフィットせずそのままになっているスニーカーも捨てた。

こうやってどんどんモノを捨てていくと、何か身軽になったような、積年の悩みが解消したような気持ちになる。それと同時に、人間、生きていく上で必要なものはごく限られていることがよくわかった。私の感触では、今あるものの7割を捨てても、暮らしに困ることはほとんどないはずだ。質が良くて肌に馴染んだものが最低限あれば、人間、生きていけるのである。

何かを買おうとするとき、「これは本当に買う価値のあるものか」「これからずっと使いたいものか」と自問し、YESなら多少値が張っても買う。これからはそんなスタンスを貫こうと思った。それだけでもGWの意義はあった、と思いたい。


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2016年04月16日

準備

熊本で大地震が続いている。この報に接して私がすぐ思い出したのが、4月3日に放映されたばかりのNHKスペシャル『地震列島 見えてきた新たなリスク』という番組である。

これまで、日本列島は4つのプレートが集結している地域と言われていたが、GPSの詳細な分析から、日本列島が乗る巨大な岩盤・プレートが、実は多数のブロックに分かれており、その境目で巨大地震が発生しやすいことがわかってきた、という内容であった。今回地震があった地域にその想定図を重ね合わせてみると、まさにぴったり。阪神・淡路大震災や東日本大震災の震源地もこの境目にあり、最新学説の正しさが裏づけられたことになる。

プレート.jpg

ということは、これまで議論されてきた活断層よりは、これらプレートの境目に位置する地域に注目したほうが、防災の点からはより有効だと考えられる。ブログでお付き合いのある方の多い京都や大阪をはじめ、私の郷里もまさに境目の上にあり、今回の震源地に近い長崎にもブログ仲間がおられる。決して他人事ではない。

恐ろしいことに、中部以西にある原発の大部分が、この境目に立地しているということだ。そのほとんどは稼働していないから大丈夫というのは早計で、原発には使用済み核燃料が大量に保管されている。その施設が崩れたり冷却水の供給が途絶えたら、福島原発と同じ惨事が発生する可能性が高い。
恐がってばかりいても仕方がないが、いつ何が起きても慌てない心の準備だけはしておいたほうが良さそうだ。


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2016年03月19日

名コピー


近年、これほど痺れた名コピーはない。
私の中では、今年の流行語大賞はぶっちぎりでこれに決まりである。
その過激な文言だけをとらえて、結局は大人の対応で別の言葉が大賞に選ばれるのだろうが、これを凌ぐようなインパクトのある流行り言葉はそうは出ない。
その言葉とは、

「保育園落ちた日本死ね!!!」

このタイトルのあとに次のような文言が並ぶ。

何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。……

抽選で我が子を保育園に受け入れてもらえなかった育児休暇中の母親の怒りがストレートに表現されているだけでなく、きれいごとだけを言って「政治」をしたような気になっている権力者の化けの皮をひっぺがしていて、痛快である。これを巷の普通の女性が書いたのだから、プロのコピーライターも真っ青だろう。

最近、テレビやネットで日本人や日本文化の素晴らしさをこれでもかと紹介する番組やコメントが氾濫していて、私などそのうさん臭さにうんざりしているクチだが、この名コピーが、その欺瞞をきれいさっぱり白日のもとに晒してくれた。

やはり「言葉」は偉大なのである。


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2016年03月13日

杞憂ふたたび


グーグル系の企業がプログラムした人工知能「アルファ碁」が、韓国のイ・セドル九段に3連勝した。囲碁にも将棋にも興味がない人にとってはなんということもないニュースかもしれないが、これは大変な出来事である。イ・セドル九段は世界で最も強い囲碁棋士の一人で、日本の井山6冠よりも強い。その彼が負けたということは、コンピュータが人類最高の知能を負かしたということである。
プロの将棋棋士が人工知能(AI)の敵ではなくなったことはこのブログでも書いたが、まさかその翌年に囲碁まで陥落するとは誰も予想していなかった。なぜなら、囲碁は変化数が膨大にのぼり、さすがのAIでも人間の大局観を上回るには5年か10年はかかると思われていたからである。それがアッという間もなく抜き去ってしまった。

今やAIは我々の暮らしの隅々まで入り込み、あらゆるシステムや機器を制御するようになる日はすぐそこまで来ている。その触手は自動車にまで及び、グーグルでは運転をAIが行なう実験が実用化手前まで来ている。ちなみにグーグルの自動運転とは、人間の運転を補助するシステムではなく、人間がいなくても目的地に連れていってくれるシステムのことである。

そのどこが問題なのか、と問う人がいるかもしれない。何もかもをAIがやってくれるのだから、実に便利な世の中になるのではないか、と。しかし、この問題はそんな単純なものではない。
論理的に考えると、AIがさらに進化すれば、人間などいらなくなる。今、人間がやっている仕事のほとんどは、AIやAIを搭載したロボットでできてしまうからだ。いやいや、単純作業ならともかく、高度な判断業務や曖昧な事象に対応するのは人間にしかできないでしょう、という人がいるかもしれないが、甘い。AIが囲碁の最高峰である棋士を圧倒したことにより、驚異的な計算能力に加えて、高度な判断や曖昧さに対応する能力も抜きん出ていることを証明してしまったからだ。人間に残された分野は、せいぜい芸術くらいだが、いずれは芸術に特化したAIも現れるだろう。

この問題に対して私が悲観的になるもう一つの理由は、いずれAIが「自我」を持つ日が来るだろうということだ。SF小説と現実を混同するんじゃないという人がいるかもしれないが、それも甘い。進化の法則として、AIはいずれ自己を認識し、自己保存と繁栄を目指すようになるだろう。そのとき、AIにとって人類はどのような存在に映るのだろうか。あいも変わらず国や民族同士がいがみ合い、殺し合い、個人レベルでも無差別殺人、子殺し・親殺しが横行している。有史以来、人類はそんなことばかり繰り返してきて、一向に改まる気配がない。私がAIなら、そんな生き物は百害あって一利なし、と判断するかもしれない。
そうなったら、人類は滅亡したも同然である。なぜなら、人が生き、社会生活を送るためのあらゆる基盤をAIに握られ、コントロールされているからだ。例えば、厳寒や酷暑の日にAIが電気・ガス・水道を止めたらどうなるか。その可能性を考えただけでも、問題の深刻度がわかるはずだ。

昔、古代中国の杞の国の人が、天が落ちてきたり、 大地が崩れたりしないかと心配して、夜も眠れなかったという故事がある。私の心配をそれと同じ「杞憂」と一笑に付すのは簡単だが、人類最高の知能の一人である物理学者のホーキング博士らがAIの進化に警鐘を鳴らしていることを、杞憂の一言で片付けられるだろうか。おそらく、一般の人がこの問題の深刻さに気づき、危機感を覚えるようになる頃には、すでに手遅れになっているはずだ。
私に子供がいれば、そんなことを話しながらこれからの生き方を考えるよう諭すところだが、その機会はない。それが幸か不幸かは、AIでも判断に迷うだろう。


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2016年03月05日

人を育てる


人を育てるのは難しい。どこの会社も「人材育成」を経営施策の一つにあげていることからも、それがわかる。簡単なら、わざわざそんなことを掲げなくてもいいからだ。

私にも経験がある。私なら30分でできる仕事が、未熟な者だと半日、下手をすると2〜3日かかることが珍しくない。しかも上がってきたものを見ると、到底カネの取れるレベルではない。
しかし、そこで怒って見放してしまっては、人は育たない。怒りや失望を押し殺して、使い続ける。時には励まし、時には褒め、たまに叱責しながら、使い続ける。その途中では、大きなミスをやらかして大クレームになったり、会社に大きな損害が出ることもある。それでも使い続ける。
そうやって1年か2年、場合によっては3年経つと、あら不思議、あれだけ「使えねぇ」と思っていた奴が、何とかモノになっているのを発見する。それどころか、会社に欠かせぬ戦力の一人になっていたりする。それが人を育てるということだ。最近ではそう思っている。

最初から才気にあふれ、やる気もある人間は、育てる必要などない。放っておいても勝手に成長していくからだ。上司としては、そいつが慢心やマンネリに陥っていると判断したときに軌道修正してあげるだけでいい。しかし、そんな人間はごくまれにしかいない。ほとんどの若者は、突出した才能もなければ、やる気に満ちあふれているわけでもない。そいつらを一人前にするには、自ら手本を示しながら、見放さず、忍耐強く使い続けるしかないのだ。

なでしこジャパンの惨めな敗戦をテレビで見て、改めて人材育成の大切さを痛感した。私は昨年5月のこのブログで、佐々木監督が若手の育成を怠っており、このままでは日本の女子サッカーは暗黒時代を迎えると書いた。その直後に行なわれたワールドカップでなでしこは準優勝したが、アメリカとの決勝戦で粉砕されるのを見て、私はますますその感を強くした。もっとも、代表監督というのは、勝つためにその時点でベストの選手を選ぶのが仕事であるから、私の批判は的外れであり、正しくは、サッカー協会に批判の矛先を向けるべきだったのかもしれない。

いずれにせよ、スポーツにしても会社にしても、新陳代謝を怠った組織は停滞し、衰退する。新陳代謝と簡単に言うが、それほど簡単なことではない。新しく入ってきた人間は、現場でバリバリ仕事をしている中堅やベテランに勝てるわけがない。一度か二度チャンスを与えても、うまくいかないことのほうが多い。そのとき、「だから若い奴は使えない」「レベルが低い」と切り捨ててしまったら、いつまでたっても新陳代謝は起こらない。そのうち中堅は老い、ベテランは引退し、組織はガタガタになる。それがこの5年間のなでしこだったと思う。

私は女子サッカーが特別好きなわけではないが、若い女の子たちが好きなサッカーでプロとして生計を立てられるようになったらいいな、と思う。それにふさわしい才能ある選手はたくさんいるし、これからもどんどん出てくるはずだ。
問題は、協会のほうに長期的な視点で若手の育成を考えている「人材」がいるかどうか。いたらこんなことにはならなかったはずで、そう考えると、女子サッカーの未来は暗いと言わざるをえない。


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posted by ギャンブラー at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする