2016年02月25日

驚くべき結果


今回も糖質制限の話。興味のない向きは読み飛ばしていただきたい。

糖質制限食を始めて1ヵ月とちょっと経った先日、血液検査をしたところ驚くべき結果が出た。
このブログでも書いてきた通り、この半年余り、私の体調は良好とは言えなかった。昨年夏に呼吸器疾患に罹って以降、体がだるい日があったり、軽度のめまいがあったり、腰が痛重かったり、という日が少なくなかった。血液検査をすると、案の定、肝機能の数値、腎機能の数値、尿酸値、血糖値のすべてで異常が見つかった。
肝機能と腎機能については、服用している薬剤の副作用が考えられた。尿酸値は、ここ20年来、高尿酸状態が続いていて痛風予備軍。血糖値も、空腹時の数値が120前後と、糖尿病予備軍かその手前の状態である。そんな折、たまたま食後に行なった血液検査で食後高血糖が判明したのを機に、糖質制限食に切り替えたことはすでに述べた。

具体的には、朝食に食べていたバナナをやめてアボカドか低糖質パンに切り替えた。飲み物は以前と同じコップ1杯の成分無調整の豆乳である。昼食は、これまでと同じご飯を詰めた弁当。特に低糖質の食材は使っていない。夕食は、炭水化物をやめて肉や魚肉中心の食事に切り替えた。また、お菓子やスイーツ、スナック菓子などの間食はやめた。どうしても口淋しいときは、無塩のミックスナッツか、スルメを齧ることにした。なお、昼食と夕食時には、難消化性の食物繊維が入った緑茶を飲んでいる。
それから1ヵ月。血液検査の結果はというと、次の通り。ちなみに治療薬は飲み続けている。
・非常に高かったγGTPの数値が5分の1まで激減。
・空腹時の血糖値が106まで低下。
・腎機能を表わすクレアチニン値が正常値に低下。
・常時7.5以上あった尿酸値が6台に低下。
・腹回りの贅肉が落ち、体重が減少。

これ以外の体調面では、
・長時間の立ち仕事でも足が疲れなくなった。
・腰の重さが軽減した。
・満腹と空腹のメリハリがつくようになった。
・舌苔がなくなり、舌が常時ピンク色になった。
・顔色が良くなった。

とまあ、たった1ヵ月で予想をはるかに超える効果が出たのである。どうやら、血液検査の異常値は、病気や薬剤のせいというよりは、過剰な糖質が内臓に大きな負担をかけていた結果らしい。代謝の活発な若いときはそれでもよかったのかもしれないが、加齢とともに代謝量が落ちて、糖質過剰による弊害が表面化したのであろう。
糖質制限食というと、ご飯もパンも食べない禁欲的な食生活を想像している人がいるかもしれないが、その人はカロリー制限食と混同している。確かに炭水化物の摂取量は減ったが、肉や魚の摂取量は逆に増えた。それに、カロリーや食事の量は気にせず、食べたいだけ食べている。それでこの結果である。

糖質制限食が話題にのぼるにつれ、その危険性を指摘する声も一部に出てきている。今後は、その批判が科学的根拠に基づいているものか、それとも根拠のない脅し、もしくは巧妙な情報操作なのかを見極める必要がある。なぜなら、炭水化物は体に悪い、極力食べないほうがいいとなったら、多くの食品メーカーは経営危機に陥るからだ。そうならないよう、糖質制限食にマイナスイメージを植えつけようと目論む動きも当然出てくるだろう。
だから、どれが正しく、どれが間違っているか、結局は自己責任で判断するしかない。ただ、生まれて初めて糖質制限を試した身として言えることは、マイナスよりはプラスのほうが断然多いということだ。

私は狂信者や盲信者が嫌いなので、糖質制限を万能のように言いふらす気はさらさらないが、健康診断であちこち異常値が出た人は一度試してみる価値はある、というくらいは言っても許されるだろう。


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2016年02月20日

工夫の日々

糖質制限食についていろいろ調べたり本を読んでいると、その理にかなった論拠に唸らざるをえない。

糖質制限食は欧米ではすでに糖尿病の標準治療となっているが、我が国では依然としてカロリー制限食が幅を利かせていて、頑として糖質制限を認めようとしない。だから、あなたが糖尿病になって「糖質制限をしたいのですが」と医師に相談しても、ほぼ確実にその弊害を理由に否定される。
インスリンが膵臓から分泌されるのは、糖質(ブドウ糖)が血中で増えた場合のみであって、タンパク質や脂質には反応しない。糖尿病は、糖質の摂りすぎによってインスリンの利きが悪くなったり出なくなって血糖値が常時高くなる病気なのだから、原因物質の糖質(炭水化物)を摂取しなければいい。糖質制限食は、そんなシンプルな理論に基づいているのだが、なぜか医者や看護師、栄養士は、その有効性を認めようとしない。
その論拠は、炭水化物は糖質となって体を動かすエネルギーとなるから、それを摂らないと体がガス欠になってしまう、というもの。しかし、糖質を摂らなくても、脂質がエネルギーとなる仕組みがあるから、体は一向に困らない。それより、糖尿病患者とその予備軍に推奨される、炭水化物を含む低カロリー食を続けていると、高血糖だけでなく低栄養状態になって、かえって病状が悪化する。穀物や野菜、果物を中心とする、いわゆる「ヘルシーな食材」は、実は栄養学的には貧弱で、かつ糖質過多に偏っているからである。そんな食事で糖尿病が治るはずもないから、糖尿病患者は増え続け、その多くは薬漬けとなる。

とまあ、本を読んで私が理解した範囲では、そういうことなのである。
私は糖尿病ではないが、これまでの食生活を振り返ると、いかに炭水化物や糖質に偏っていたかを痛感せざるを得ない。ご飯、うどん、パスタ、そば、パン、餅、和菓子、スイーツ、煎餅、ポテトチップス、チョコレート、果物……好物をあげれば切りがない。これでは食後高血糖になっても、致し方あるまい。
そもそも、人類700万年の歴史のうち、699万年は肉食中心の暮らしを続けてきた。日本で稲作が始まったのはたかだか数千年前からであり、まして身の回りに炭水化物や砂糖をたっぷり使った食材があふれるようになったのは、ここ数十年のことである。つまり、肉食を前提に形作られてきた人体に、突然、炭水化物(糖質)が大量に入ってくるようになった。その急激な変化に人体の仕組みが対応できるはずもなく、その結果が糖尿病および糖尿病予備軍の激増である。

その対策として今注目されているのが、タンパク質(肉)、卵、チーズ中心の食事(MEC食)である。炭水化物を極力摂らないかわり、これらの食材をたっぷり食べることで、血糖値が下がるとともに、多くの日本人に見られる低栄養状態から脱して体調・体力が回復するという。我々日本人にとって、「肉や脂の摂りすぎは健康に悪い」「野菜や果物はヘルシー」というのが常識だが、MEC食の提唱者によると、それらは科学的に全く根拠のない俗信であるという。事実、肥満大国アメリカでは、長年にわたる調査に基づいたエビデンス(科学的実証)により、脂質摂取の上限に対する勧告を昨年から撤廃している。
より詳しく知りたい方は、この本が入門書となるだろう。糖質過多のこれまでの食生活を振り返るいい機会になるのではなかろうか。

私はというと、朝食は豆乳と低糖質大豆クリームパン、昼食はこれまで通りの弁当(ただしご飯は5分搗き)、夕食は肉料理と低糖質ふすまパン、間食は無塩ミックスナッツ、という食生活を試している。そんな食事をしていて何が楽しいの?という向きもあるだろうが、これが楽しいのである。新しい発見があり、工夫がある。糖質制限食によって私の体がどうなるのか、乞うご期待。


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2016年01月24日

難儀


またまた問題出来(しゅったい)である。昨年末に、血液検査で腎機能の低下を指摘されたという話を書いた。年が明けた先日、再度血液検査をしたところ、数値は正常の範囲内に戻っていることがわかった。やれやれ一安心、と胸をなで下ろしていたら、主治医が少々難しい顔をしている。何か?と聞くと、「どうも食後高血糖のようですね」との返事。普通なら食後2時間もすれば血糖値は低下するものだが、私の場合、そのカーブがなかなか下がらない、ということらしい。もう一つの血糖値の状況を示す指標は正常値なので、急を要することはないとのことだが、塩の次は糖かと、いささかうんざりした。

血糖値を下げるのは簡単で、炭水化物(糖分)を摂らなければいい。最近は糖尿病の研究が進んで、インスリンが反応するのは糖質だけであり、それ以外の食べ物を制限したり摂取カロリーを気にする必要はないという学説が徐々に広まっている。私は専門家ではないので本当のところはわからないが、我が愛する作家・宮本輝は糖質制限食の信奉者であって、それによって自身の糖尿病を克服している。
炭水化物を減らすのは大変だと思われがちだが、米、小麦、芋、果物、砂糖を避ければいいだけだ。それ以外の食べ物である肉、魚、野菜にはほとんど炭水化物は含まれていないし、大豆や落花生も量は少ない。これなら何とかなりそうだ。
そう思って、主治医に「さっそく糖質制限食を始めますか」と言ったら、ダメ出しを食らった。炭水化物はいわば体を動かすガソリンであり、それを抜くとガス欠の車のようになる。そんな不自然な食生活をするより、バランスのよい食事をすることが今の私には必要ということらしい。その説明を聞いてその場は引き下がったが、完全に納得したわけではない。

テレビでは、嫌というほど糖尿病の恐ろしさを強調する医療バラエティ番組が流されているではないか。私自身、入院先で糖尿病による合併症の悲惨さを目の当たりにしたし、会社にも糖尿病で失明しかけた人がいる。だから、「高血糖状態を放置するわけにはいかん」との思いが沸々とわき上がってくるのである。一方で、主治医の指示を無視してあまり極端なことをすると、元も子もなくなるという思いもある。
ではどうするか。私は現実主義者であって、妥協をすることに何ら抵抗感がないたちなので、次のことをやって、とりあえず様子を見ることにした。

・間食、特に和菓子やスイーツはやめる。
・ご飯は、消化が遅く血糖値が上がりにくい玄米食か、最低でも五分搗きにする。
・みりんや砂糖などの甘み調味料は極力使わない。
・サプリメントとして、食事と一緒に、難消化性デキストリンを含む緑茶を飲む。

本来なら、これに「毎日運動をする」をあげなければならないのだが、できそうもないので早々に諦めた。ちなみに、難消化性デキストリンとは、食事に含まれる糖の吸収を穏やかにする食物繊維で、食後の血糖値の上昇を抑える効果が期待される特定保健用食品である。
これでさらに高血糖が続き、本当の糖尿病になったら、迷わず糖質制限食を決行するつもりだが、まあ大事には至らないだろうとも思っている。

かつて、名人・古今亭志ん生は、「昔は高血圧なんてぇものがなくて良かった」といったという。昔だって高血圧症はあったが、名前がついていなければないのと同じである。それにひきかえ今の時代は、血液検査をすれば、たちどころに身体の微細な異常が判明する。そんなことを知らずに寿命が来たら静かに死んでいった昔の人と、健康診断の数値にビクビクしながら過ごし、寝たきりになってもなかなか死なせてもらえない現代人の、どちらが幸せかと問われれば、すぐには答えが出ない。難儀なことである。


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posted by ギャンブラー at 08:53| Comment(8) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月16日

減塩生活


昨年の12月以降、意識して食事の減塩化に努めている。直接のきっかけは、血液検査で腎機能を表わす数値が上限を若干オーバーしていたことだが、急を要するようなレベルではなく、医師からも特段指示はなかった。それでも、いい機会だと思って減塩を心がけることにしたのである。
欧米の先進国と比べて、日本人は塩分摂取量が非常に多いと言われている。例えば、今や国民食とも言えるラーメンは、スープまで飲み干すと1杯で10g近く摂取することになるそうだ。私自身の食生活を振り返ると、どちらかというと薄味志向だが、かといって薄味に徹しているわけでもない。そもそもどれくらいの塩分を摂っているのかさえわからない、というのが本当のところである。

国が推奨するのは、以前は1日10g以下だったように記憶しているが、今では6g以下である。といってもピンとこないだろうが、普通の食事をしていると、6gなどあっという間にオーバーしてしまう。例えば味噌汁1杯には2〜3gの塩分が含まれている。2杯飲めば、それだけで1日の許容量に達してしまう。1日6gという数値がいかに厳しいかが、減塩を意識して初めて身に染みた。
もう一つわかったのが、加工食品にはかなりの量の塩分が含まれているということである。加工食品とは、野菜や肉・魚などの生鮮食料品を除くすべての食材・調味料である。醤油に大量の塩分が含まれていることは誰でもわかるが、例えば料理酒にも、化学調味料(出汁の素)にも結構な量の塩分が含まれている。パンやうどんもしかり。つまり、それらを何も味付けしないで食べても、かなりの量の塩分が体に取り込まれてしまうということだ。そんな食材に囲まれている中で、1日6g以下を守るのは至難の業である。

ちなみに私の食事を検証してみると、朝食は豆乳とバナナだけなので、塩分摂取量は0g。
昼食は弁当を作っているが、卵焼き、魚の練り物、ウインナーにそれぞれ0.5gで1.5g。これに塩鮭を入れようものなら塩分摂取量が跳ね上がる。さらにインスタント味噌汁には最低でも2gの塩分が入っている。塩鮭をおかずから外すとしても、昼食だけで3〜4gの塩分摂取は避けられない。
夕食は、例えば鍋にするとして、出汁の素を使わずに昆布とカツオ節から出汁をとっても、醤油や塩などで味付けするから、5gくらいの塩分は入ってしまう。それをすべて飲むわけではないが、食材に含まれるものと合わせると4gくらいの塩分は摂っているはずである。さらに、食事後にスナック菓子や煎餅など食べようものなら、1日の塩分摂取量は軽く10gに達してしまう。「どうすべえか」というのが、目下の悩みの種である。

塩分摂取量などというチマチマしたことを考えずに、好きなものを、好きな味付けで、好きな量だけ食べるのが一番の健康法だ、という考え方もあろう。あるいは、塩分だけに気をつけていても、糖質やカロリーなども考えないと意味がない、という指摘もある。そんなことは重々承知の上である。ではなぜ塩分にこだわるのか。

ガン、糖尿病による合併症、アルコール性肝炎、痛風、腰痛……。過飲やカロリーオーバー、肥満など、欲望の赴くままに生きてきた結果、手酷いしっぺ返しを食らった知人・友人を、身近で何人も見る歳となった。若いうちなら挽回も可能だろうが、ある程度の年齢以上になると、しっぺ返しどころか、病気で地獄を見ることになりかねない。私もいつかは死ぬことになるが、その寸前まで、地獄を見ることなく平穏に暮らしたい。そのためには、欲望に手綱をつけ、コントロールしなければならない。
欲望の中でも最も強い食欲についていえば、飲酒と食べ過ぎが二大欲望だろうが、私の場合は、食事における塩分濃度が欲望のバロメーターであり、それを制限することが欲望のコントロールを意味する。そういえば、塩分にこだわる理由がおわかりいただけるだろうか。

とはいえ、これから先、薄くてまずいものを我慢して食べる気は毛頭ない。薄味でありながらコクがあって、満足感の得られる食材や料理法を求めて、試行錯誤の日々は続く。


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2015年12月31日

年の瀬の街

暮の30日に大井競馬に行ってきた。毎年1〜2回、会社の競馬仲間たちと、個室でコース料理と共に競馬を楽しむという贅沢を味わっているのである。今年は有馬記念で大勝ちしたので、そこでの酒代と、競馬を終えた後の銀座での打ち上げはすべて私持ちということにした。結構な出費になるが、そうやってみんなが良い気分で年の瀬を楽しむことができるという、そちらのほうがうれしい。

前日の29日に、競馬新聞を買いに後楽園に出かけた。地方競馬の競馬新聞はどこでも売っているわけではないからである。いつもは人出の多い後楽園ドームの周辺だが、年の瀬とあって、奇声を上げるホームレスのおっちゃんを除いて平穏で、閑散としている。
しかし、その片隅にある大井専用の場外馬券売場に着くと、様相は一変していた。人、人、人で、その一角だけが黒い塊のようになっている。しかもオッサン率99%。中には杖をついてヨボヨボ歩いているじいさんもいる。その日は大井競馬最大のレース・東京大賞典があり、いつも激混みするのである。

自動券売機の後方でしばらく様子を見ていると、実に面白い光景があちこちで展開されていて飽きることがない。マークシートの記入漏れ等でモタモタしている人には、後ろに並んでいる人から「早くしろよ!」「何やってんだ」と怒号が飛ぶ。別のところでは、整理の警備員に何やら食ってかかっている人がいる。警備員は半笑いで相手にしないが、それが気に食わなくてさらに激高する。見れば、決して身なりの悪くない御仁である。その鬼のような形相を見ていると、なぜそんなに興奮しているんだろうと不思議ですらある。よくネットなどで、日本を訪れた外国人の日本人評が載せられていて、「とても礼儀正しい」「謙虚で慎み深い」という声が多いが、この光景を見せてあげればどんな感想を持つだろうと考えると、笑いを抑えることができない。

でも、新聞購入にかこつけて後楽園に来たのは、これが見たかったからだ。「鉄火場」。人間のむき出しの欲が表に噴出する場。博打はこうでなくちゃいけません。JRAのCMに出ている有村架純ちゃんがその場にいたら卒倒するような異様な熱気こそが、博打の本質であり、魅力である。
しかし一方で、場内のあちこちで散発している不穏な空気が、全体に波及するというような気配は皆無である。ほとんどの人はそんな光景に接しても完全無視で、ひたすら新聞に目を落とすか、マークシートにせっせと印を付けている。立錐の余地もない中で、みんな黙々と列に並び、負けても軽く舌打ちするくらいで、再び予想をマークシートに記入して、行儀よく列に並ぶということを繰り返している。これまた外国人に見せたら、「ミラクル!」と驚くかもしれない。

帰りがけに、遊園地の1階にあるスーパー・成城石井で正月用の買い物をした。店内に入ると、そこではちょっとリッチな奥様方が優雅に買い物を楽しんでいた。店員の接客も丁寧そのもの。先ほどの場外とのあまりの落差に、これもまた日本なんだなあと感心した。

肝心の大井の戦績はというと、4630円を◎−▲で当てたのが効いて、少しだけ浮いて終えることができた。終わり良ければすべて良し、そう思うことにして、年越しをしよう。

皆さんにとって、来年が良い年、いや、ワクワクするような年でありますように。


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2015年12月24日

お笑いを一席


毎度お運びいただきまして、ありがとうございます。
師走でございます。せわしいこの時期になりますってぇと、なぜだかそれに輪をかけてそそっかしい奴が出てくるものでございまして。そんな奴が大家さんを訪ねるところから噺が始まります。

「大家さん、大家さん、開けておくんねぇ、大家さん!」
「うるさいねぇ。誰だい、こんな朝っぱらから」
「俺だ、オレオレ」
「なんだ詐欺師か、おとといおいで」
「違うよ、俺だよ俺、八五郎だ」
「なんだ、八つぁんかい。どうした」
「カネ貸してくれ」
「なに? 朝っぱらからカネ貸せだぁ? 寝言いってんじゃないよ。その前に溜っている店賃払いなさいよ」
「そんなこと言わずにさぁ。後生だからカネ貸しておくんねぇ」
「困った奴だねぇ。何に使うんだ」
「お札(ふだ)を買おうと思ってね」
「お札? そんなもの買ってどうするんだ」
「そのお札が四倍のカネになって返ってくる」
「はは〜ん、悪い話に乗せられたね」
「いやいや、俺もね、はじめはそんな上手い話があるけぇって相手にしなかったんだ。でもよぉ、会う奴会う奴、みんなそのお札を持ってほくほく顔してやがるんで」
「ほう、そりゃ妙な話だね。どんなお札だい? 有り難いお言葉でも書いてあるのかい?」
「そりゃそうさ。そのお言葉がでえじらしい」
「で、なんて書いてあるんだい」
「そりゃ、ありがたいお言葉さ」
「あ、そうか。お前さん無筆だったね。なんて書いてあるか聞かなかったのかい」
「そりゃ聞いたさ。宝船だってよ」
「お札に宝船。そりゃおめでたいじゃないか。それでみんなほくほく顔をしてるっていうわけかい」
「そうじゃないんで。一夜明けりゃあ、そのお札が買ったカネの四倍になるっていうんだ」
「バカ言ってんじゃないよ。そんなうまい話があるもんか。騙されているんだよ、諦めな」
「待っとくれよ。俺もね、そう思って相手にしなかったんだがよ、訳を聞いて、こりゃ本物だって思ったんだ」
「訳? なんだいそりゃ」
「いやね、宝船っていうのは馬の名前らしい。その名前が書いてあるお札じゃないといけねぇんだ」
「馬? はは〜ん、暮に有馬様のところで行われる競べ馬のことか。道理で」
「道理だろ?」
「でもな、八。その宝船っていう馬のお札が、なんで四倍にもなって返ってくるんだ」
「そりゃぁ、その馬が勝つからさ」
「どうして。しょせん畜生じゃないか。人様の思う通りに走るわけがない」
「と思うだろ。でもね、今度の競べ馬は、宝船の引退興行らしい。だから勝つんだ」
「バカだねぇ。引退興行だからって、馬は馬。人の思う通りに走るわけがない」
「そこが味噌さ。宝船は引退後に、さる大店が仲間を束ねて種馬にするらしい」
「さる大店? どこのお店だい?」
「え〜と、おか、おか、おか、おかかメシが食いたい」
「なんだそりゃ。あぁ、岡田屋か、そりゃ大店だ。儲けに聡いっていう噂だな」
「その岡田屋が預かって種馬にするんだ。宝船の種付料を高くするめにゃ、勝たなきゃ話になんねぇ。みっともない負け方をしたら、種馬の値打ちがなくなるじゃねえか」
「そりゃそうだな。でもなぁ、しょせん畜生……」
「おととしもそうだったんだってよ」
「おととし?」
「織屁降るっていう馬が、並みいる名馬を蹴散らして勝ったんだ。そうしたら、種付料が六百両に跳ね上がったっていう話だ。だから今年も宝船で間違いねぇ。どうでぇ、参ったか」
「う〜ん、一応筋は通ってるな」
「じゃ、カネ貸せ」
「それがカネを借りたい奴の態度かい。でもな、織屁降るっていう馬も岡田屋が絡んでいるのかい?」
「いや、シャーなんとかっていう店の持ち馬らしいや」
「シャー? あぁ、西台屋か。岡田屋も霞むほどの江戸随一の大店じゃないか。そこで種付けするんじゃないのかい。それじゃぁこの話、気をつけたほうがいいよ」
「そ、そうかい? でもなぁ、四倍だぜ」
「悪いことは言わない。諦めるんだね」
「なんでぃ、ケチ」
「ケチとはなんだいケチとは」
「ケチだからケチって言ってぇんだ。確かな儲け話が目の前にあるっていうのによ〜。ちぇっ、酒でもかっくらって寝るとすらぁ」
「そうそう、宝船は、初夢だけにしておきねぇ」

おあとがよろしいようで。


有馬記念予想
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2015年12月06日

ルーティン

私が持っていないもので、なんとかして手に入らないものかと長年思ってきたのが、「鈍感力」である。不安に駆られたとき、悪いことばかりが頭に浮かぶとき、「あぁ、もっと鈍感になれたらなぁ」と何度思ったことか。しかし、こればかりは生まれついてのものらしく、その願いが叶ったことは一度もない。
常に最悪のことを想定し、さまざまな可能性を考えて神経を鋭敏な状態にしておくことは、危機管理の観点から見れば理想的だろう。しかし、そんな状態を続けることは実に疲れるのである。そんな人間に対して、「気にするな」「なんとかなるさ」と言っても、あまり意味はない。したくてそうしているわけではないからである。

鈍感になるために私が有効かもしれないと考えているのが、「ルーティン化」である。すっかり有名になったラグビーの五郎丸選手のあのルーティンは、失敗するかもしれないという不安を心から締め出すための儀式らしい。そんなルーティンを私も編み出したいのだが、どうしても五郎丸選手のあのポーズが頭に浮かんできて、なかなかうまくいかない。何かいい方法はないものだろうか。


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2015年11月03日

文句ある?

今年はお盆休みを1日取っただけで、会社を休んだことがない。有休など何日でも取れる身分だが、全く消化しないのは、昔は褒められたかもしれない。しかし、今では非難されても仕方がないし、何より「勤続疲労」によるアイデアや創造力の枯渇によって、仕事(会社)をステップアップさせていく上で障害になるという指摘には、ぐうの音も出ない。

私が会社を休まないのは、他にやることがないからである。さらにいうと、心身を完全に解放してしまうと、かえって体の不調をきたすという事情がある。信じてもらえないかもしれないが、ここ5年ほど、ゴールデンウイークや年末年始になると、計ったように体調が低下する。仕事上での心配事や悩みから一時的に解放されると、それまで沈潜していたストレスが表面化して、そのような現象を招くようである。その証拠に、再び会社に行って仕事をすると、体調が上向くのである。

何もやることがないと言ったって、旅行や食事や買い物に出かければいいでしょう、という人もいるだろう。しかし私は基本的に出不精で、外に出ること、とりわけ人混みの中にわざわざ出て行くこと自体が好きではない。結局、自転車で自宅の周辺をブラブラしてお茶を濁し、あとは家で読書をするくらいが関の山である。まことに詰まらない人間だと言わざるを得ない。

先週末に実家から渋柿が届いた。ご覧のように、不敵な面構えをした野育ちの柿である。この皮をむいて天日干しすれば、干し柿ができる。老母によると、カビが生えないよう、柿同士を触れさせないこと、網やヒモにも触れさせないこと、雨に濡らすのは厳禁、とのことだが、田舎のだだっ広い敷地ならばともかく、都会の狭いベランダでそれらすべてを満たすのは困難だから、干し物用の網をアルコール消毒して柿を並べることで妥協した。これからしばらくは天気が良さそうだから、その間にいかにうまく乾燥させるかが勝負である。

渋柿.jpg
干し柿.jpg

こんなことをしながら気を紛らわせることが、私には精一杯の休日の過ごし方である。何か文句ある?

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2015年10月25日

菊花賞予想

ドゥラメンテという主役が不在の菊花賞。その中では、皐月賞2着、ダービー4着のリアルスティールが格上だろう。しかし、この馬にはドゥラメンテのような破格の強さが感じられない。勝っても不思議ではないが、負けても「やっぱりなぁ」と思われるような、何かがひとつ足らないタイプではなかろうか。
一番人気のリアファルの前走は鮮やかな逃げ切り勝ち。競馬場も距離も異なる条件下で、同じようなレースができるのか。過信禁物だと思う。

◎は、ブライトエンブレム。前走は行った行ったのレースで大外を回したのだから、この着順もやむなし。今回も後ろからの競馬になるだろうが、この馬の地力と、田辺の戦略に期待したい。栗東在厩も好印象。
◯は、スティーグリッツ。長いところを連勝してきた勢いに乗りたい。
▲は、サトノラーゼン。前走がいかにも本番の試走というレース。鞍上が岩田というのもプラス。
面白いところでは、△ワンダーアツレッタ。地力?だが、デムーロ・マジックが出れば。


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2015年10月18日

秋の彩り

金曜から土曜にかけて、山形県の地方都市へ出張に行ってきた。気候はすっかり秋で、さすが東北らしく朝の気温は8℃だった。日中は20℃近くになり、この寒暖差が野菜や果物を美味しくするに違いないと実感した。
事実、ホテルで食べた地元の野菜を使った朝食は、大都市のビジネスホテルではあり得ないくらい豊かだった。そして何より、途中で食べた、串に刺して団子にしたずんだ餅が異様にうまかった。団子には大量のずんだが盛られており、甘さも絶妙。これで1本130円とは信じられない安さである。添加物を使用していないため、すぐ餅が硬くなってしまうから、現地に出かけて食べるしかない。これぞ出張の余得である。

今朝は、実家の老母から柿が送られてきた。手入れも何もしていないから風で擦れて傷だらけだが、これもまた味のうちである。そうこうしているうちに、今度は郡山の友人から梨が届いた。柿と並んで梨は最も好きな果物で、殺風景な部屋が秋の果実で一挙に彩りが豊かになった。
日々の暮らしでは、嫌なことや心配事が絶えないが、まあ、何とかなるよ。テーブルの上の果実がそう言ってくれているようだ。


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2015年10月12日

秋の一日

しゃぼん玉 昭和の我を映しけり

先週末、好天に誘われて近くの公園に自転車で出かけたときのこと。父に連れられた幼子がしゃぼん玉を吹いて遊んでいた。その脇をゆっくりと通り過ぎたとき、一つのしゃぼん玉が私の顔の前に漂ってきた。その虹色に輝く球体を凝視すると、そこには少しくたびれた昭和生まれの自分の顔が映っている。そのとき、上の句がふと脳裏に浮かんできた。しゃぼん玉の季語は春だから、秋にふさわしい句ではないかもしれないが、地元深川に庵を結んでいた俳聖・芭蕉の魂が気まぐれに私の身に舞い降りたに違いない、と勝手に自画自賛している。

昨夜は大学時代の友人たちと吉祥寺で会食をした。食道がんの大手術を乗り越えて復帰した友の快気祝いを兼ねた集まりである。当然、話題は病気のことに集中する。それなら俺にも語ることがいっぱいあるぞと思うのだが、途中でだんだん嫌になってきた。誰も老いや病から免れることはできないが、それしか話すことがないというのは癪である。反面、病気のことなど無視して当たり障りのない話ばかりするのも、どこか空虚である。60歳前後というのは、そのへんの兼ね合いが難しい微妙な年頃なのだ。
とはいえ、久し振りに会った途端に名字を呼び捨てで言い合える友人がいるというのは、悪くないものだ。その瞬間だけ、40年前の若い自分にタイムスリップしたような気になる。若者で賑わう街をぶらぶらと歩きながら、未熟だが純粋だったあの頃に戻ったような気持ちが、つかの間戻ってきた。


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2015年09月19日

驚いた

土曜の朝は忙しい。起きて朝食をとったらすぐ1週間分の洗濯。次いで、クイックルワイパーで床掃除。さらに掃除機をかける。あとはテーブルや洗面所などをチョイチョイと拭く。ずいぶんきれい好きのように思われるかもしれないが、男やもめの例に漏れず、手をつけないところは年中ほったらかしだから、真のきれい好き・整頓好きの人が私の部屋を見たら眉をひそめることだろう。

掃除・洗濯が終わり、コーヒーを飲みながらベランダから外を見ていたら、目の端に見慣れないものが入ってきた。どうやらオリーブの実のようである。しかも完熟に近い。これには驚いた。オリーブは自家受粉ができないため、2本以上を隣接して植えないと実がつかないからである。その宿命を乗り越えたこの実は、なかなか根性がありそうである。

オリーブの実.jpg

このオリーブの木は、一度枯れたことがある。数年前に急性膵炎を患い、2ヵ月近く家を空けたからである。その間、水をやることができなかったから、枯れて当然だ。事実、隣の鉢のグミの木も枯れてしまった。退院してから、ダメ元と思って2つの鉢に水をやり続けたら、オリーブの木だけ蘇った。これには驚いた。どうも、オリーブには驚かされ続けている。

夏の間中続いた体調不良も、ようやく診断が確定し、投薬治療を受けることになった。かなりの長期戦になるが、服薬3日目にして、体調はほぼ元に戻りつつある。オリーブほどではないが、オレにだって多少は根性があるぞ。そう自らを励ましている。



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2015年08月29日

近況


[ゆく夏]
この夏は体調不良で明け、その状態のままで終わってしまった。それでも、夏休みは1日取っただけで働き続けているし、その夏休みを使って大井競馬に出かけたし、何かあるとすぐ体重が減ってしまうタチなのに逆に微増しているから、大したことにはなるまいと高をくくっている。
それでも精神的に鬱陶しいので、今週はじめに病院(大病院)に行ってきた。最近の病院は非常にきれいで、システム化も進んでいる。カードを入れると受診番号が印字された紙が出てきて、診察の際は氏名ではなくその番号で呼ばれる。カルテも電子化されており、レントゲン写真や血液検査のデータなどは端末のモニターに表示される。前回のものとの比較が簡単にできるから、便利であることは間違いないが、病状をキーボードで入力するのに余念のない医師の横でボーと座っていると、自分や自分の病気がとるに足らない卑小なものに思えてきて、そこはかとない虚無を感じる。
診察を待つ間、受診表をぼんやり見ていると、私の名の横に、受診番号とは別に「60」という数字が印字されているのに気づいた。これは何を意味しているんだろうと3秒ほど考え、それが自分の年齢であることを理解した。理解はしたが、「えっ」という声が出かけたほど、その数字に大きな違和感を感じた。そうか、オレはもう60なのか。生まれてから60年も経ってしまったのか。なんということだろう。それじゃあ体のあちこちにガタがきても当然だよな……などという思いが次々と浮かんできた。塵一つ落ちていない快適な待合室。そこで一人肩を落として診察を待つ初老の男。なんとまあ、遠くへ来てしまったことだろう。

[読書]
体調はイマイチでも、読書は続いている。最近読んでいるのは、塩野七生著『ローマ人の物語』。10年か15年前に大ベストセラーになったシリーズだが、当時読みそびれてしまったので、遅ればせながら電子書籍で読むことにしたのである。ところがこれが滅法面白い。その面白さの肝は次の言葉に要約される。「知力ではギリシア人に劣り、体力ではケルトやゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣るローマ人が、なぜあれほどの一大文明圏を築き上げ、それを長期にわたって維持することができたのか」。その答えは読んでのお楽しみだが、日本人がようやく狩猟生活の穴蔵から出て稲作を始めたころ、すでに地中海では現代に勝るとも劣らない文明が花開いていた事実に、愕然とさせられる。
宮本輝の『田園発 港行き自転車』も、記憶に残る一冊となった。この物語を読むと、がぜん北陸新幹線に飛び乗って富山に行き、黒部川扇状地の大もとにある愛本橋に立ちたくなる。私はこのブログでたびたび宮本輝の小説に言及しているが、ある程度歳がいって、せわしない日々の暮らしにうんざりしたり疲れたときは、手にとられんことをお勧めする。『草原の椅子』『三十光年の星たち』『水のかたち』『森のなかの海』『三千枚の金貨』……どれを手に取っても、珠玉のひとときを過ごせるはずだ。


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2015年05月31日

毀誉褒貶


毀誉褒貶は人の世の常。それまで神のごとく崇められていた人物が、今では犯罪者のごとく貶められ罵倒される。その逆も含めて、歴史をひもとけばそうした例は枚挙に暇がない。

例えば現首相の安倍さん。前に首相を務めたときは、病弱で頼りにならないおぼっちゃま首相というのがもっぱらの評価だったが、今では曲がりなりにも株価を2倍に引き上げ、精力的に外国にも出かける首相として長期政権を築きつつある。だが、その得意満面の表情や、国会での下品なヤジを見ていると、そろそろ足許に気をつけたほうがいいのではないでしょうかね……とアドバイスしたくなる。

プロ野球の松坂投手も毀誉褒貶の渦中にある。WBSの頃は絶対的な日本のエースとして奉られていたが、アメリカに渡って思うような結果を出せず、帰国しても故障でマウンドに上がることすらできない最近では、「給料泥棒」などと罵られている。

そんな毀誉褒貶の「候補生」として私が秘かにリストアップしている人物が、なでしこジャパンの佐々木監督だ。4年前、3.11でうち沈む日本にワールドカップ優勝という朗報を届けた彼は、まぎれもない名将であった。しかし、4年後の今、間もなく始まるワールドカップの日本代表選手を見たとき、「あ、これは危ないぞ」と直感した。驚いたことに、そこに名を連ねているのは4年前とほとんど同じ面々。その多くは選手としてのピークを過ぎ、功成り名を遂げた選手たちばかり。その選手選考からは、「夢よ再び」という甘さとご都合主義が透けて見える。
日本女子サッカーの興隆という中長期的視野に立ったとき、世代交代は必須であり、そのための人材がたくさんいるにもかかわらず、彼はそうした伸び盛りの選手をことごとく切り捨て、周りを昔馴染みの選手たちで固めた。彼にも言い分はあろう。実際、若い選手では世界の舞台で勝ち抜くことは難しいかもしれない。しかし、そんなことは承知で世代交代を進め、若い選手にこれ以上はない真剣勝負の厳しさを体験させる。その上で、結果についての責は自分一人で引き受けるというのが名将の名将たるゆえんである。ワールドカップの成績に関係なく、今回のチーム編成によって日本女子サッカーは長期停滞を余儀なくされる、と私は見る。

毀誉褒貶と言えば、競馬ほどそれが激しい世界はない。前走で1番人気に祭り上げられた馬が、一度の凡走でその座から滑り落ちる例は毎日のように起きている。それが実力相応の評価なのかどうかを判断するのもまた、馬券検討の面白さである。
今年のダービーで言えば、皐月賞で1番人気だったサトノクラウン。ルメールの名手とも思えない下手な騎乗と4コーナーでの不利によって惨敗した。その結果、ダービーでは離れた3番人気。他に有力馬がいないからまだこの位置にいるが、もっと評価が低くなってもおかしくない。
私は皐月賞でこの馬に◎を打ったが、評価の落ちた今、再び◎を打とうと思う。東京コースは2戦2勝。距離伸びて更に…というタイプではないが、末脚勝負に賭ければ勝機はある。ルメールも「今度こそ」と爪を研いでいるだろう。
◯は、リアルスティール。この馬の能力、安定性はピカイチ。理想的な対抗馬だろう。
ほぼこの1点でいいと思うが、足許を掬われないために、1番と7番も軽く押さえておく。一番人気のドゥラメンテ? サトノクラウンと同じ堀厩舎、前走であらわになった気性難、異様なムードに包まれるスタート地点の外枠、といった要素を考えると、期待を裏切っても不思議ではない。一方で、圧勝するシーンも考えられ、それならそれで諦めもつこうというものだ。


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2015年04月26日

二つの講演


いささか旧聞に属するが、信州大学の入学式で、学長が新入生に向かって「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」と問いかけた、というニュースがちょっとした話題になった。言いたいことはわかる。四六時中スマホばかりいじっていないで、もっと本を読み、人と話し、思索にふける時間を持て、ということだろう。しかし、大好きなオモチャに夢中になっている子供に、「オモチャを捨ててもっと外で遊びなさい」と諭すようなもので、若者が素直に言うことを聞くとは思えない。

時を同じくして、ホリエモンこと堀江貴文氏による近畿大学卒業式での講演が、ネットを中心に話題になっている。これが滅法面白い。彼は信州大の学長とは違って、スマホをはじめとするインターネットの有用性と、ITによって加速したグローバル化の意味について具体例をあげて説明した上で、次のようにアドバイスして講演を締めている。

「未来を恐れず、過去に執着せず、今を生きろ」



「カネで買えないものはない」と放言した、往事の生意気なホリエモンらしからぬ真摯なメッセージだが、若くしてジェットコースターのような人生を歩んできた人物の口から発せられると、妙に説得力があって、これなら若者の胸にもスッと入っていくのではないか。

この講演を聞いて思い出したのが、アップル創業者、スディーブ・ジョブズのスタンフォード大学での講演である。10年ほど前のものだが、今も少しも色褪せず、プレゼンテーションの天才らしい語り口と相まって、聞く人の胸を打つ。講演の最後に、彼はエリートの若者に対して次のような言葉を贈っている。

Stay Hungry. Stay Foolish.(ハングリーであれ。愚か者であれ。)



堀江氏もジョブズも毀誉褒貶の激しい人物であって、彼らの下で働けと言われても御免被りたいが、言っていることは至極真っ当であり、示唆に富んでいる。ネット社会に警鐘を鳴らす大学の学長と、ネットの申し子のような彼らのどちらの言葉に説得力があるかと問われれば、私は一も二もなく後者に軍配を上げたい。


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2015年03月28日

桜が目にしみる


この冬は一度も風邪を引かなかった。引く兆候すらなかった。思えばここ数年、風邪らしい風邪を引いたことがない。これだけを見れば、私は至って頑健な身体の持ち主のように見える。しかるに、10年単位で大病をし、生命の危機にも直面した。果たして私は、頑健なのか病弱なのか。

大学時代からの友人が食道がんになった。嚥下に支障が出て病院に行ったら見つかったということで、かなり進行しているらしい。彼はこれまで病気らしい病気をしたことがなく、煙草は吸わず、酒もほどほど。日ごろは無農薬や減農薬の野菜・果物を中心とした食生活を送っている。性格も私と違ってのんびりしており、至ってマイペースである。そんな奴ががんになるのだから、巷間言われている健康食や、テレビの健康(病気)バラエティーで医者が力説している健康法などアテにならないのがよくわかる。

入院早々、食道の全摘手術を受けるとのことだが、こんな野蛮な治療法しか選択できないことに、腹立たしさを覚える。胃を引っ張り上げて食道代わりにするそうだが、たとえ命は助かっても、生活の質は著しく落ちるだろう。悪い部分だけを最小限切り取って、だましだましがんと付き合う方法はないのかとも思うが、医者は絶対にそんなことは勧めないだろうし、家族も望まないだろう。入院したら、ベルトコンベアに乗ったようなもので、言われるまま手術を受けるしかない。抗がん剤だって、本当に効くかどうかは医者さえわからないというのがホンネだろう。心身ともに負担の大きい治療を受けるのと、最低限の治療で済ます場合と、さして余命に変わりはないというデータもある。ここにがんという病気の難しさがある。

還暦を過ぎた私の身の回りでは、これからこんな話が次々と起きるだろう。私自身がその当事者になる可能性もある。咲き始めた桜の淡くやさしい色合いが、いつも以上に目にしみる弥生三月である。


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2015年03月01日

前へ進む


ここ数ヵ月、「人の命」ということについて考えさせられる事件が立て続けに起きている。そのすべてが凄惨な結末を迎えていて、無関係な立場ではあっても、心が重く沈んでいくような気がする。
その中でも、イスラム国による日本人の拉致・殺害は、誤解を恐れずに言えば、わかりやすい事件であった。そういう所に行ってそういうことをすればそういう結果を招くと、容易に予想されたからである。

一方、名古屋の女子大生による撲殺事件や、川崎の中一惨殺事件は、どうしてそういうことができるのかが、まるで理解できない。乳幼児虐待も同じことだ。それを「心の闇」と言われたって、誰でも多かれ少なかれ持っているものだし、こういう形で噴出することはまずない。我々の心には良心や慈悲心が備わっているし、エスカレートする暴力に自らストップをかけるブレーキ機能もあるからだ。しかし、加害者には人間の精神性を形作っているそれらが欠如しているか、決定的に壊れている。結局は精神病質者=サイコパスが引き起こした事件ということになるのだろうか。

わからないということで言えば、JRAの後藤騎手の自殺も同じだ。理由は後づけでいろいろあげられているが、本当のところは本人にしかわからない。というか、本人でさえわからないまま、発作的に命を絶ってしまったのではなかろうか。もともと正義感が強く、周囲への気配りもできるタイプだったから、覚悟の自殺とはとても思えないのである。

こういう事件に接すると、いったい「人の命」とはなんだろうと考え込む一方で、たとえ辛くとも、自分は明日からまた一歩一歩前に進むしかないのだと思う。そうやって歩を前に進めているのは自分だけではないということを、改めて心に留めておきたい。


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2015年02月22日

終の住処


ちょうど1年前、リタイア後の暮らしを模索するため、熱海にマンションを見学にいったときのてん末はすでに述べた。
その後も私の中で「移住ごっこ」は続いていて、今は札幌が終の住処の第一候補になっている。仕事で何度か出かけ、街のたたずまいや空気を肌で感じることによって、「なかなかいい所だなぁ」と思うようになった。東京に比べれば不動産の相場が安く、間取りも北海道らしく広々とした物件が多い。食べ物は安くてうまいし、気候もいい。高温多湿が嫌いな私にとって、北海道は理想的な土地だ。そして何より、競馬場が街の真ん中にあるのがなんとも好ましい。場合によっては、列車に乗って函館競馬場まで遠征してもいいだろう。そんな気ままな暮らしを想像するだけでワクワクする。

冬の寒さはどうか。確かに、年を経るにつれ北国の寒さは身に堪えるだろう。そこで、札幌には4月から10月の間だけ住むことにして、あとは京都、福岡に1ヵ月ずつ、1月から3月は沖縄で暮らせばいい。住む場所はウィークリーマンションでいいだろう。こういうとき、独り身の強みが生きる。
そんな暮らしがいつ実現するか、それが最大の問題だ。冷たい雨が降る東京の街並を眺めながら、「ハァ」とため息をついている。


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2015年02月14日

託された本


先日、我が社にOBがひょっこり訪ねてきた。定年退職してから10年くらいは経っているだろうか。聞けば、最近、自分史のようなものを自費出版し、それを印刷所から引き取るために都心に出てきたという。
「自分史のようなもの」と書いたが、正しくは、自らの家系を調査してまとめた本である。一冊頂戴してパラパラとめくってみると、実によくできている。考えてみればあたり前のことで、彼は現役時代、編集者兼ライターとして長年仕事をしてきた。だから取材することと原稿を書くことはお手のものである。その彼が、暇にあかせて自らの先祖を調査し、親類縁者から話を聞いてまとめたものだから、内容が充実していて当然である。しかも、本文デザインと装丁は同じく我が社のOGで現役のデザイナーに頼んだそうだから、見た目も市販の書籍と比べて遜色がない。
「あんまり暇なものだから、こんなものをつくっちゃったよ」と言って照れ笑いするOBを前にして、定年退職後の暮らしの理想型を見たような気がして、うれしくなると同時に、羨ましかった。

その後、ゆっくりとその本を見ていて、改めて感心したことが二つある。
一つは、彼が自分の家系だけでなく、妻の家系も調べて一冊の本にまとめたことである。長年連れ添った仲とはいえ、元は赤の他人である。その家系を何代も遡って調べるのは相当骨だったに違いない。それでも彼はコツコツと調査し、先祖の足跡を文章にしていった。その姿の背後に、妻をはじめ家族を思いやる気持ちが透けて見えるようである。本を受け取った奥さんはもちろん、すべての親類の人たちは、心から喜ぶに違いない。
ちなみに、彼によると、葬式のときが取材の絶好のチャンスだそうである。「普段めったに会わない親類縁者が集まると、昔話に花が咲いて、知らない話や意外なエピソードが次々と出てきて、自然に取材ができるんだよね」とのことだ。

もう一つは、古い写真の持つ力である。その本には何ページにもわたって両家の先祖の写真が載っているのだが、その1枚1枚がいい具合にセピア色に焼けていて、実に味わいがある。それになんと言っても、そこに写っている人々の凛々しい姿をどう表現したらいいのだろう。写真機を前に、正装した人たちが厳粛な表情でかしこまっている。見ているこちらまでが襟を正したくなるような情景である。そこには、現代人が喪ってしまった、素朴で、質素で、勤勉で、誠実な日本人像が写し取られているような気がする。
そんな私の感想を裏付けるように、時代が下るにつれ、写真の中の人たちからは凛々しさが消え、笑顔ばかりの弛緩した表情が目立つようになる。とりわけ若者や子供のほとんどは判で押したようにピースサインをしている。そのフワフワとした表情と身なりを見て、50年後100年後の子孫は何を思うのだろうか、と他人事ながら心配になる。今からでも遅くはない。親子でも夫婦でも、家族のいる人は元気で全員が揃ううちに、きちんとした身なりをして、町の写真屋さんのスタジオに出向いて記念写真を撮りなさい。そして、その写真をアルバムに貼ってしっかりと保管しなさい。余計なお世話とはいえ、そうアドバイスしたくなるのである。

私もいずれは仕事を離れ、悠々自適の暮らしをするようになる、はずである。そのときお前は何を思い、何をするのか。OBから託された一冊の本は、そのことを問いかけているようである。


蛇足
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2015年01月04日

ヘラヘラ笑い

9連休とはいえ、終わってみればあっという間の年末年始であった。今年は巡りがいいのか悪いのか、仕事始めが月曜日。だらだらと過ごした長休明けに、みっちり1週間も働かなければならない。気鬱なことである。

年末は、部屋の掃除と買い出しに費やしながら、途中、大井競馬に出かけたりして、そこそこ有意義に過ごすことができた。しかし、正月中は本当に何もやることがない。テレビをつけても、昨年の正月のコピー番組が延々と垂れ流されていて、とても見続けることができない。ラジオもしかり。結局、読書で時間をつぶすしかなかった。
そんな中、唯一面白かった番組が、テレビ東京の『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』。こちらもいい加減マンネリ番組なのだが、年に二、三度しかやらないし、そのたびに場所も変わるので、案外飽きることがない。そして何より、太川陽介と蛭子能収の掛け合い、特に蛭子さんのダメ人間っぷりが面白い。
目標を立て、そこから逸脱せずに計画通り行動しようとする太川陽介は、日本のサラリーマンの典型である。頼もしいが、時として息が詰まる。まるで会社で仕事をしている自分を見ているようである。
それに対して蛭子さんは、休んだり手を抜くことを常に考えている。長距離を歩かざるを得ないときなど、文句タラタラである。かといって、目標を忘れているわけではないし、時には太川陽介をサポートしたりご機嫌をとったりする。そんな、腰が引けていながら完全には脱落していない自分をアピールしようとするずるい姿勢が、ほろ苦い笑いを誘う。

我が日本では、経済格差が広がりつつあるという。たしかにそういう傾向はあるだろうが、経済格差は、いつの時代にもどこの国にもあることであって、例えば私が幼少期を過ごした昭和30年代の日本は、今よりもっと貧富の格差が鮮明だったように思う。当時と異なるのは、経済水準が全体にかさ上げされ、例外を除いて貧しくても餓死することがなくなったことだろう。
そして決定的な違いは、国民のほとんどが「サラリーマン」になったことだ。当時の小学校では、日本の職業別構成比は農民が9割、と教えられた記憶がある。高度経済成長前だから、それほど間違ってはいないだろう。それが現在では、9割とまではいかなくても、国民の半分以上がサラリーマンである。それによって何が違ってくるのか。
サラリーマンとは、企業(組織)に属して働く人のことである。企業では、前年比や予算比が価値判断の尺度となり、価値の集積である業績は前年比で上回るのが当然、たとえ前年を上回っても、予算比で下回ると合格点はもらえない。つまり、企業で働いている限り、永遠に右肩上がりを要求される。日本人の大半がサラリーマンになったため、それが世の中の常識となってしまった。
その結果、本心ではそんなことは無理だ、限界だとわかっているのに、実績が前年を下回ると大騒動になり、まして前年比マイナスの計画を立てたりすると、経営者であれ平社員であれ失格の烙印を押されてしまう。だから、これほど社会全体にモノがあふれ、暮らしも豊かになっているのに、人々は常に何かに追い立てられるように急ぎ足で歩き、いつも不機嫌でイライラしている。親による子殺しや、突発的な殺人事件の多くは、そうした社会を覆う空気が凝り固まった負の果実のように思える。
蛭子さんはあのテレビ番組で、その馬鹿らしさを、脱力するようなヘラヘラ笑いを通じて我々に訴えている。だからあの番組は高視聴率を取っているのだろう。

そんなことを考えながらテレビを見ている正月が楽しいわけがない。明日からはまた、前年比だ予算比だと、数字に身を絡めとられながら右往左往する日々が始まる。せめて休日くらいは、眉間のしわを伸ばしてヘラヘラ笑いをしながら過ごす。それを今年の生き方にしたい。本年もどうぞよろしく。


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posted by ギャンブラー at 16:39| Comment(2) | TrackBack(0) | よしなしごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする